江戸時代の中山道福島宿の地形と風景


■江戸時代の中山道福島宿の地形と風景■

  上掲の絵は、江戸時代の中山道福島宿の姿を想像復元して描いたものです。現在の地形や風景と大きく違っています

  明治から昭和にかけての古い写真やごく断片的な記録などをもとにして、江戸時代の福島宿をめぐる地形や風景について想像での復元を試みたものです。福島の地形と街の姿は明治期から昭和期・平成期にかけて何度も大規模に改造された結果、江戸時代の姿をほとんど想像できないほどに変わってしまいました。
  こんな無謀な冒険を試みたのは、往古の福島宿の姿を伝えるまとまった史料が失われれしまったため、歴史を後代に伝承するために誰かが挑戦しないと往古の姿が人びとの記憶・記録から完全に消滅してしまうと恐れたからです。風車に立ち向かうドン・キホーテのような挑戦です。
  史資料によると、明治政府の新街道令や国道建設計画、その後の各地での鉄道建設によって旧街道をめぐる環境と交通体系、地形と街の姿は大きく転換してきました。しかし、わかるのは断片的な変化だけで、全容の把握はできません。
  福島では1992年(明治25年)からの国道建設によって、上の段がある舌状台地高台の地形は大きくつくり変えられ、下町から西に向かって木曾川沿いに国道が建設されました。直後に国道沿いに新たな家並みが続々建設され、現在につながる町の姿が形成され始めました。
  さらに昭和期になると、塩渕と呼ばれた木曾川の分流は埋め立てられ、中島という中州は後背地の段丘と地続きになり市街地化していきました。万郡から続く高台斜面の縁は切り通されて、崖下は初期の国道になりましたが、今は脇道でしかありません。

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