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長野県木曽郡木曽町
 
  福島宿の上の段は、室町後期に藤原系木曾氏の城館があったところと伝えられています。舌状台地の丘の西端に木曾家の統治の拠点としての居館があったそうです。
  上の段には木曾氏の家臣団が集住していた集落の遺構があって、江戸幕府はその遺構を利用して軍事制度としての街道宿駅の南西端の防御拠点としたと見られます。
【巻頭写真は、上の段の街並み】
福島宿の歴史と地理


絵地図は上の段の説明板から引用

■城館跡としての上の段■

  この記事では、中八沢橋を渡るところから歩いて進む道順に家並みの景観写真を配置していきます。


上の段の直下にある八沢川の畔、河原町


端から上の段への上り坂の家並み

  徳川家の覇権によって築かれた街道制度は、戦国時代の兵站装置としての軍道を継承していました。宿駅を中継拠点として物資の輸送を継ぎ立てる駅逓制度によって結ばれる街道がつくられました。「徳川の平和」が持続していくと街道・宿駅制度は経済的物流を担う仕組みに変貌していきましたが、初期には戦国時代の遺制に倣ったものでした。
  そのため、宿駅の街並みや出入り口に桝形が設けられ、鉤の手道と石垣で敵軍の進入や通行を防ぐ仕組みが施されていました。福島宿の上の段という街区は、地形の高低差や鉤の手道という軍事的防衛装置としての特徴がことのほか色濃く残っている地区です。木曾義昌の治世における居館の跡がやがて大通寺の境内となりました。

  それというのも、上の段には、室町後期に藤原系木曾氏が統治の拠点として城館を置き、背後の尾根に城砦を築いていた遺構と地形を意図的に利用して街道と宿場街を建設したからです。
  つまり、室町時代の城下町の遺構に宿場街がつくられたのです。城下街の防備のために、もともと上の段にはT字路や鉤の手がいくつもあったわけで、中山道と福島宿の建設にあたってはその遺構を利用したということでしょう。


鉤の手の手前の道脇に古い井戸


井戸の横を入ると山口小路(戦国期からの遺構)

  上の段の家並みと段丘地形は、福島宿の南西端の防備を兼ねていましたが、宿の北東側の防備としては関所が設けられていました。
  この地区には、往時の宿場街の町割りや古い家並みが昭和期まで残っていて、それにもとづいて本棟出梁造り町家の修復がおこなわれてきましたが、とはいえ、町家の造りは江戸時代のものと同じではありませbん。
  江戸時代の町家は、二階部分の高さが現在の家屋と比べてずっと低い造りだったと見られます。


この細道は寺門前小路で大通寺の鐘楼門にいたる


茶房松島はいく分古い造りをとどめている

  中八沢橋を越えると上の段への上り坂となります。わずか20メートルほどで鉤の手道となって左に曲がり、さらに20メートルほど進んで右折します。江戸時代には曲がり角には石垣塁が置かれていて、桝形となっていたようです。
  そこから150メートルくらい北に進むとふったび鉤の手道となって段丘崖を下る坂道となります。
  街道に直角に合流する小路が東側に3本、西側に2本あります。戦国時代まであった旧い城下町の小路で、幅が2から3尺で町家の軒下をくぐるように通る細道です。入り込んだ外敵が迷うような造りになっています。


北端の鉤の手の手前の風景


食事処肥田も古い造りを模して復元したらしい


馬宿小路は軒下を往く細道


中八沢橋を渡って上の段にのぼる坂道の脇の家並み


中八沢橋を渡って鉤の手道の坂をのぼる。突き当りは木地の館。▲


突き当りを左に進んだ先にも鉤の手。小径の左手は河原町。▲


直角の 曲がり角には石垣をともなう桝形があったらしい▲


ここから宿場街らしい造りの町家が軒を連ねるようになる▲


中山道は中八沢川橋から鉤の手道をのぼって上の段の街に入る▲


宿場街の風情が漂う上の段の家並み(八沢川方面を眺めて)▲


家並みの間を街道が往く。正面の山麓に代官所跡がある。▲


街道西脇にある「おまつり会館」。奥には晴明神社がある。▲


馬宿小路には奥行きの深い町家の軒下から入る▲


上の段休憩舎は上の段の突端にある


高札場跡から鉤の手道を曲がって下り坂に差し掛かって振り返る▲

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