■宿場を補佐する集落だったか■
江戸幕府の道中奉行が定めた福島宿(街並み)の長さは400メートルに達していません。代官所とその「城下街」があるので、宿場街そのものは小さな規模にとどめてのかもしれません。
街の下手は現在の中央橋の少し西側に桝形があって、ここが江戸方面からの出入り口で、上手は上の段の街道の東への曲がり角に桝形があって、これが京方面からの出入り口でした。
上の段から降りて、八沢川が刻んだ谷間の河岸段丘面につくられたのが八沢町で、ここは宿場街の外側に位置しています。
出梁造りだが、二階は高く現代風の造り
かつては魚屋さんだった町家店舗
街道制度という観点から見ると、八沢町は宿駅の街としての福島宿を支援・補佐する加宿としての役割を期待されていました。
ところが、福島は尾張藩美濃領に隣接する信濃筑摩郡木曾地方を統治する代官所が置かれた、1万石を超える所領の首府で、城こそないものの、実態としては山村家の城下町をなしていました。福島宿――上の段組、横宿組、下町組、上町組――も八沢町も、そういう木曽郡の行財政の中心となる都市集落の集合体のなかに位置づけられていたはずです。
この辺りの事情が、城下街の街道宿場の都市集落のしての仕組みや機能を考察するうえで独特の難しさをもたらします。
八沢町は、福島宿駅を補佐するのに支出する負担分の年貢高を免除されて、代官所に納める年貢高をかなりの程度割り引かれていたはずです。
現在の八沢町の家並みの長さは中山道に沿って300メートル近くありますが、中八沢橋の近くの険しい地形を考慮すると、江戸時代には家並みの長さは200メートルにも満たなかったと推定されます。
それでも、福島宿の上町組、下町組、上の段組のどの街集落よりも大きかったと見られます。ただし、宿場街よりもずっと農村的な性格が強い集落だったでしょう。八沢村という地名だったかもしれません。
さて、江戸時代に中山道を下ってきた旅人は、山裾の中平の小集落を出ておよそ3キロメートル余り歩いて、現在の駅前広場の辺りに達し、高台の下に八沢の集落を見つけたときに大きな安堵感を抱いたでしょう。
漆器店「海老屋」の辻。この先は八沢橋。
現存の八沢町の街並みは、幕末から明治期まであった――間口が狭く奥行きが深い――町割り(敷地割り)を保ちながら、主に昭和期に修改築された店舗兼住宅からなるものです
。江戸時代には、今のように整った地形ではなく、街道の路面そのものに起伏があり、八沢川の岸辺はもっと険しく、高台の尾根が河岸まで迫っていたのではないでしょうか。現在の街道の幅は、防災上の必要から、街道の両脇の各家屋がそれぞれ旧街道から1メートルほど後退させて修改築英したため、旧街道よりも2メートル以上も広くなっているようです。
橋の袂まで高台尾根が迫っている
尾根の端には鉄道橋梁が築かれている
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