池の背景に徳音寺本堂が控えている立地
◆創建の経緯は謎の寺院◆
徳音寺は木曾義仲の菩提寺で、深い因縁があるのですが、寺院の起源・創建をめぐる伝承は混乱を極めています。
創立の由緒としては、1166年、源義仲の養父、中原兼遠が義仲の元服を祝い、城館を築いて本拠とさせたのだとか。そのさい館の鬼門方向に真言密教の寺院を建立し、その寺号が柏原寺だったとも伝えられています。開山は高僧(阿闍梨)円成でした。
1168年、義仲の母が病没し、柏原寺に葬られたそうです。そして、1184年に義仲が頼朝の追討を受けて戦死すると、覚明という僧が柏原寺に位牌を納めて菩提寺とし、山号寺号を旭将軍という諡名と法名から日照山徳音寺と改め、開基を義仲としたのだとか。
ところがその後、この寺は2度の水害で堂宇も文物も流失してしまいました。それが原因か、長い期間衰微し、やがて1579年臨済宗の禅僧たちによる古い寺院の復興運動のなかで大安和尚によって再興され、禅刹となったと伝えられています。
しかし、これまたおそらく土石流で埋没あるいは流失してしまったので、1716年、現在地(宮ノ越向小路地籍)に再建したのだとか。
ところで、元服時に構えられた義仲の居館(城館)の場所がどこだったかについては、諸説紛々で、不明です。『日義村史』の当該部分の著者(郷土史家)は、宮ノ原(現在の旗揚げ八幡の辺り)だとしていますが、別の郷土史家は、徳音寺の現在地またはその近傍だと見ています。
前者の説だと、館の鬼門は徳音寺の前身、柏原寺は現在の南宮神社の辺りとなります。後者の見方では、木曾川右岸の山裾から山腹の中腹に位置する、現在の徳音寺集落に柏原寺があったことになります。徳音寺の村落は往古、柏原という地名だったのです。
◆寺の来歴を推理する◆
宮ノ越の近隣では、原野に林昌寺の前身である洗林寺という真言密教の修験霊場(古刹)があったということなので、南宮神社の辺りにも徳音寺村のいずれにも、神仏習合の格式の密教修験霊場があったと見られます。
現在の旗挙八幡社が義仲元服時からの館だったことには、しかるべき埋蔵文化財の発掘調査や検証がなされてきたわけではありません。地元の言い伝えです。もちろん、現徳音寺境内が居館跡だということも検証されているわけではありません。
とはいえ、両方の場所ともに木曾川の河岸段丘の上にあるので、両方とも可能性があります。ただし、どちらか、または両方が室町後期以降の藤原系木曾氏の城館跡という可能性もあります。もとより、義仲の城館跡に室町後期ないし戦国時代の木曾氏の城館が築かれたという可能性も残されています。
私見では、旗挙八幡社の方がより古い城館があったところで、より低い位置にある現在の境内は戦国時代に城館が築かれた場所ではないかという印象です。
突飛な発想ですが、地形的な特徴から、徳音寺(古い柏原)集落は、古代からの密教修験の都市的集落(門前町)で、そこに木曾義仲の館も寺院もあったのかもしれないという空想も描けるような気がします。
◆現在の徳音寺◆
さて、今回の旅では、宮ノ越宿の北天から寺橋を渡って、心水公園に立ち寄ってから、徳音寺の境内に詣でました。
心水公園というのは、不思議な場所です。だしぬけにそこに沼地があって、木道が設えてある風致公園です。なんでこんなところに水辺があるのだろうという疑問がわきました。
昭和期まで、徳音寺の西側の谷間を流れ下る沢から水路を引いてここに水田を開拓したのでしょう。さらに古い時代には、城館の庭園の一部または軍事的防衛用の池あるいは濠があって、義仲館の辺りも低湿地または湿田だったのではないでしょうか。
霊廟内陣の義仲像と甲冑
楼門の山号扁額
徳音寺の境内寺域は、義仲館辺りよりも1メートル以上も高い段丘面に位置している。ここには戦国時代末期、藤原系木曾氏の居館があったかもしれない。
それよりも前には旗挙八幡社の辺りに城館が築かれていたかもしれない。両方の場所はともに義仲の城館が置かれていた可能性がある。
徳音寺を1719年にここに移転したのは、古い城館の跡で、整地されていて堂宇群を建立しやすい地形だったからと推定できる。木曾谷では、臨済宗の禅僧たちが衰微した古刹を再興して、古い城館跡の高台や段丘面に寺院堂宇を再建したと見られる。
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