江戸時代の宮ノ越宿と中山道をめぐる地形

■宮ノ越宿の北端で木曾川左岸から右岸山麓の道へ■

  上掲の絵は、江戸時代(1800年頃)の宮ノ越宿から巴淵、山吹山方面の地形を鳥瞰した想像図です。
  中山道宮ノ越宿は、木曾川左岸の河岸段丘面の古い氾濫原の平坦地――太古、木曾川が東に蛇行して浸食と堆積によって形成した氾濫原――に建設されました。ところが、上田集落から木曾川左岸に5キロメートル以上も続いてきた平坦地は宮ノ越宿の北端で終わります。そこから北の左岸は、東側から張り出した山裾丘陵が急斜面で木曾川に落ち込む険しい地形です。
  往時の土木技術では、左岸の底から北に街道を開削することは不可能でした。おりしも、対岸には太古の木曾川の西への蛇行で形成された氾濫原の平坦地が北に向かって1キロメートルほど続いています。そこで、中山道は現在の義仲橋の辺りで木曾川を渡り、徳音寺集落を抜けて巴淵まで開削されたようです。
  徳音寺集落は平安時代以来の村落で、往古には柏原村と呼ばれていたようです。
  巴淵は、東に突き出た山吹山を回り込んで西向きに流れる木曾川が尾根山塊にぶつかって流速を落とし南に折れ曲がる谷底です。縁の両岸ともに険阻な崖状の斜面をなしています。
  巴淵は景勝地となっていて、クルマが数台停められる駐車場が設置され、昔の中山道のように左岸と右岸とをつなぐ橋も架けられています。この橋は普通車が渡ることができ、木曽町の巡回バスが通っています。
  人びとは木曾川に面した山吹山の急斜面を開削して狭い杣道をつくり、尾根を回り込んで吉田村や菅村に向かう街道をつくったのです。今でも、国道19号の神や入口交差点の南側では、この斜面にへばりついた旧中山道の跡の一部を見上げることができます。観光案内ではそれを「山吹山回廊道跡」と呼んでいます。

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