木曾谷の旧中山道沿いには近代の産業遺産もあります。木曾川の膨大な流水量は電力エネルギーの供給源としても役立ったのです。 そういう近代産業史を物語る歴史遺産が、木曾川に架かる桃介橋です。この橋は、基本構造が木製の吊り橋です。
  鉄骨やコンクリートの橋梁とは異なる存在感と風格を放つ桃介橋は、近代の構築物でありながら、旧中山道の昔懐かしい景観とも調和しているように見えます。


◆木曾谷の風景に溶け込んでいる吊り橋◆



木曽川左岸の天白公園の芝生から眺めた桃介橋。3基の橋脚のつり橋構造がよくわかる。右背後は南木曽岳。


▲木曾川に架かる。中央背後の山は三留野愛宕山で城跡がある。


▲橋脚の下を右往く橋桁遊歩道。両脇にトラス。


▲中山道は対岸を往く。背後の尾根は南木曽岳。


▲清冽な水が流れる木曾川。上が下流方向。


▲中央の橋脚から河床に降りる石段が美しい


▲石段の下から振り返って見上げると・・・


▲中空にかかる架かる橋梁(中央部から北半分))


▲石積みの外観の階段の造り


▲河床から見上げると・・・天空を往く遊歩道に見える


▲桃介橋の東端の風景

⇒蛇抜け沢の探索記事を読む


天を衝く橋脚が吊綱を支える

  1922年(大正11年)、大同電力(現関西電力)によって、当時の読書村(現長野県南木曽町)の読書発電所の建設にさいして資材の運搬路として木曽川に架けられた吊り橋が桃介橋です。
  全長は約247m、幅約2.7m。建設主の大同電力社長、福澤桃介(にちなんで桃介橋と呼ばれています。
  当時としては、きわめて規模の大きい木造の吊り橋です。主に資材運搬路として利用するため、トロッコ軌道が敷かれていました。
  構造としては、3本の橋脚で4つの部分からなる橋梁(4径間)を支える吊り橋です。橋桁を鉛直方向に吊るとともに、水平方向にも地面からワイヤーで支えた吊り状構造になっています。4つの支径間の長さは、①約24メートル、②約104メートル、③約104メートル、④約15メートルとなっています。


欄干の役割トラス越しに木曽川下流部を見る


河床まで10メートル以上の高低差を下る


橋脚アーチ部の支柱も小さなアーチ型だ

  橋梁の両脇に設けられた欄干のような枠組み、すなわちトラスは木造で三角形を二重に施してあるので、横からはX字型に交差して見えます。そして3基の橋脚のうち中央の橋脚には河川敷に降りる石階段が設けられ、川に親しめる工夫がされています。この階段は、橋脚から横に張り出した壁構造となっていて、橋脚の安定が図り構造的な強度を増すように設計されています。
  その後、トロッコ軌道は外され、1950年(昭和25年)から川を跨ぐ歩道として両岸集落の連絡や通勤、通学など地域の交通に大いに役立っていました。ところが、1953年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋は計画されました。
  しかし、皮肉なことに解体撤去工事の予算が確保できないことから放置されることになりました。そこに、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元されました。そのさい、トロッコレールの痕跡が分かるように復元されたそうです。1994年 (平成6年)には国の重要文化財に指定されました。


吊りワイヤーのカテナリ(二次)曲線が美しい


橋の南、JR中央西線の下を流れる蛇抜け沢

 桃介橋の南袂から東に歩くと、JR中央西線に出会う。線路は南北にはしっている。その下を沢が流れ下り、まもなく木曾川に合流する。この小さな沢は、「蛇抜け沢」と呼ばれている。かつて「蛇抜け」と呼ばれる土石流が多発した急流の沢だ。
木曾川はこういう巨石を容易に押し流す


桃介橋の下を白く波立ちながら流れる木曾川。清冽な水は青みが勝った暗緑色だ。

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