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▲重厚だが古びた石垣の上が園原家の屋敷地
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▲城砦のような石垣の結構。この石段をのぼる。
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▲城郭の天守にのぼる大手道のような雰囲気だ
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▲石段の上に基礎特有の本棟造り家屋の低い屋根が見えてきた
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▲神官家の居宅は妻入造りの古民家だ
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▲主屋の東側手前、庭の隅に祀られた天神社
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▲今はトタン葺きだが、往時は石を載せた板葺きだった
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▲城館の廓の防御設備のように見える石垣
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▲後背地の山腹と調和した庭園や庭木
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▲主屋の背後の棚田と山林も、かつて園原家の所領だったか |
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イチョウの古木の背後に「園原先生の碑」が立つ
屋敷地の傍らに立つ説明板によると、園原家は、三留野宿東山神社の神官を務めた家門だそうです。東山神社は、三留野集落の東にある等覚寺の背後に祀られた神社です。住宅遺構は、江戸時代に多くの門人を擁した大学者、園原旧富の時代にまで遡る建物だとか。
園原旧富は、1703年(元禄16年)に三留野村和合の神官の家に生まれ、15歳で神職を継ぎ、神道を究めるために京都に遊学し神祇管領長だった吉田兼敬に師事 し、「神学則」「木曽古道記」などを著わし、尾張・美濃・信濃で門人も多数擁する高名な神学者となったといいます。
さて、神官家の主屋は、間口6間半、奥行8間、切妻本棟造りで、正面と背面側には下屋が付属しています。特徴的なのは、栗材を多用されていて、こういう用材は、信州では江戸時代中期の建設された民家の特徴のひとつだそうです。
建築年代を正確に示す記録は見つかっていませんが、栗材の多用、差鴨居の鼻栓止めを室内で用いている点、板壁が多く閉鎖的造りである点などから、当初建築は、17世紀後半から18世紀前期と推察されるそうです。ところで、床を掘り下げた主屋と馬屋を別構造にする形式は南木曽町の古民家に見られる結構で、幕末頃に再建したと見られるものの、それ以前の規模や形式をそのまま踏襲しているようです。
主屋手前にある天神社の社殿は、新たな部材を用いて明治期に再建されたものと見られます。屋敷周りの石垣は、街道に沿って積まれ、途中に屋敷に上がるための石段が組まれていて、明治期以前の古いものでしょう。さらに屋敷裏の庭園には池やドウダンツツジなどがを配してあり、屋敷表側に立つイチョウの巨樹は家の歴史と風格を感じさせる景観だといえます。
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古民家の背後に見える家屋も屋敷地内か?
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近年、土台と蓋殿が補修されたようだ
江戸時代までは神社や寺院は、堂舎の建て替えや建て増しのために必要な費用を自らまかなうことができる規模の所領(村や広大な耕作地や山林、農民集落)を保有していました。いわば大地主ないし小領主ともいえる地位にあったのです。現在のように修築や改築のために、氏子や檀家による寄付など集める必要がありませんでした。
ところが、明治維新によって寺社は経営資産としての領地を国や県に没収されてしまいました。その結果、寺社は堂舎の整備や改修・改築をおこなう資金を自力でまかなうことができなくなってしまったのです。
神社について言うと、神社の経営者であった神官家(大きな神社では集団の場合もある)は大地主または小領主でしたから、名主や庄屋を凌駕するほど広壮で格式の高い屋敷を構え、田畑や山林、村落を保有していました。広大な屋敷のなかには、神社とは別に社殿や神殿、祈願所を構えて、神事や祈祷・祭事を主催していました。
園原家のように、重厚な石垣を構築して屋敷を守る結構を築くことは、多くの神官家が地頭や小領主家系の子孫である場合が多かったことからして、通例だったといえます。
園原家は、旧富に宿東山神社の神官職を代襲相続させた後、彼を京都に何年も遊学させることができるほどに富裕だったのです。神官職の相続を認めてもらうためには、全国の神官職を統括する京都の吉田家に高額の謝礼金(権利金)を治めるなければならないうえに、京都で神学などの学問の師たちに十分に束脩(授業料)を支払い、多数の高価な書籍の費用をあがなわなければならなかったのです。
ところで、「園原先生の碑」は、旧富の学徳を慕う門人たちによって1781年7月、自宅の前に建立されたものだそうです。
⇒桃介橋の探索記事を見る
⇒蛇抜け沢の探索記事を見る
⇒三留野宿東山神社の記事を見る
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