私たちは、中山道遊歩道歩きで読書集落の兜観音と神明社の境内を通り抜けました。境内入り口脇の案内板によると、伝説では、ここは木曾義仲にゆかりのある観音堂だそうです。
  境内には休憩用のテーブルとベンチが置かれています。一休みを兼ねて、このお堂と神社を探索してみましょう。


◆観音堂と「木曾義仲挙兵」伝説◆



兜観音堂: 昭和期の建築だと見られる小さなお堂


▲神明神社の境内と拝殿。奥に本殿がある。


▲拝殿前から奥に安置された本殿を見る


▲拝殿脇の境内摂社群


▲蓋殿の前部が拝殿の庇となっているようだ


▲兜観音の本堂。入母屋造りで柱に支えられた向拝がある。


▲観音堂の前(南側)に置かれた水船と呼ばれる水場

このように太いヒノキやサワラの丸太の上の部分をくり抜いて、そこに清水を流して水場となっているものを、木曾路では「水舟」と呼ぶそうです。丸田舟をつくる要領で、水場としたからでしょう。


▲観音堂東脇に立つ百万遍念仏塔、庚申塔など


▲観音堂の前から境内を眺める


▲休憩用のテーブルとベンチ。日影は涼しくて心地よい。


▲境内南端の水車。背後には手洗い所がある。

徳川家は源氏系であることを標榜していました。将軍家に拝謁するため中山道の参覲旅をする各藩の領主たちは、徳川家への忠誠を示す意味でも、旅の途中で源氏木曾義仲ゆかりの、兜観音への参詣を欠かさなかったと伝えられています。大名行列がこの境内を参道通り抜けていったのでしょう。

写真の水車と手洗い所と小径を挟んで向かい側には木工所がある。これも、この辺りの名物らしいが、コロナ禍を経た現在、営業しているかどうかは不明。ただし、神明社の境内の端にある組子屋は、この木工所が経営しているようだ。


神明社前の中山道。この小見戸の先が神戸集落

  かぶと観音と神明社は境内が一体化して、中山道遊歩コースになっています。境内を樹林が覆い、鬱蒼とした木陰をつくっています。この探訪では、神明社側から入って、隣のかぶと観音堂と境内を探索してみましょう。
  
  神明神社とは、一般には伊勢神宮(本宮または外宮)を勧請して建立した神社を意味するようです。したがって、この社は伊勢社ということになります。神仏習合の伝統に沿って、観音堂の境内に神明宮を祀ったと見られます。
  しかしながら、この神社について史料が残されていないようで、今のところ情報はありません。流造りの本殿を見ると、江戸時代末期から昭和中期までに建立されたもののようです。江戸時代末期には「お伊勢参り」が大ブームとなったと言われています。当然、中山道は信州各地から伊勢講集団の参拝旅の経路となりました。


境内北端にある木曾の組子屋


神明社の境内へと続く石段。ここも遊歩コース。

  そういう風潮を受けて、この地でも伊勢講が結成され、参詣したり、伊勢大神を勧請して社の建立、あるいは古くからあった社の再建立がおこなわれたでしょう。
  そういうブームを呼び起こしたのは、神仏習合の時代、伊勢神宮に仕える御師と呼ばれる神官兼僧侶たちです。日本各地に伊勢神宮を宣伝して回り、各地の集落で参詣のための結社(講)を組織し、毎年、旅行費用を積立てさせて、村の代表を参拝のために自分が経営する伊勢の宿坊に宿泊させる手配をしました。これは宗教文化を広める巡礼マーケティングでした。

  さて、社殿の北脇から石段を伝って観音堂の前に行きましょう。小ぢんまりした造りの入母屋のお堂です。昭和中期の建築または修築ではないでしょうか。
  寺社境内の南端に立つ案内板の解説によると、平安時代末期、平家打倒の呼びかけに応じて1180年に決起した源義仲は、城山に妻籠城砦を築き、砦の鬼門にあたるこの場所に祠を建てたそうです。この祠に、兜鉢の頂点(八幡座)の飾となっていた観音像を祀ったのだとか。おそらく現存の観音堂の内陣の須弥壇に、伝説の小さな観音像(後代につくったもの)が安置されているのではないでしょうか。


お堂の内陣の様子。須弥壇の前に兜がある。


腰かけ岩だとされる堂宇礎石跡

  地元の言い伝えによると、その後、小さな堂宇ないし祠のまま民衆に尊崇信仰されたようです。ところが、戦国の末期の1587年、豊臣家の家臣としてこの地を統治していた武将、木曾義昌の拠金寄進を受け、山村家が大旦那になって堂舎が建立されたそうです。しかし、義昌はその後、山林資源(木材)の宝庫である木曾を――「蔵入地」として――直轄支配しようとする秀吉によって、下総の領地に移封させられ、木曾を離れました。
  とはいえ、木曾家の有能な重臣、山村家は木曾代官として、幕末までこの地にとどまりました。


境内の端に立つ観音像


中山道から境内に入る参道石段

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