三留野から南下してきた中山道は、城山しろやまに続く尾根の鞍部を縦断して、いよいよ妻籠に向かって降りていく道が始まります。そんな場所の西脇から城山の妻籠城跡に導く細道が分岐します。城山は、あたかも木曾川と蘭川との合流部をなす谷に向かって突き出た独立峰のように見えます。
  しかし、城山には南木曽岳の主稜線から西に延びる尾根がつながって、鞍部地形をなしています。要するに、城山は妻籠を守るために誂えたような地形なのです。これ以上山城に適した場所はないでしょう。


◆妻籠を見おろす小山の上にある城◆



城山山頂の主郭跡の南端から妻籠宿を遠望する。妻籠を統治し、防衛するためには、城山は不可欠の拠点だ。

  谷間に孤立して突出する城山の頂からは妻籠宿の全貌はもちろん、国道256号、蘭川、馬籠峠の往来、飯田への大平道などが手に取るように監視できます。山城を築くためには、これ以上にふさわしい場所はほかにないでしょう。写真のなかで、旧中山道は、妻籠の街の連なる屋根の下を通っています。




▲大手道跡の遊歩道は登山道のような細道


▲切岸跡や帯曲輪跡の縁を往く遊歩道


▲竹林が崖や切岸を覆いつくしている


▲痩せ尾根を往く土橋の手前の遊歩道


▲山頂下の帯曲輪を斜めにのぼる遊歩道


▲藪を抜けると山頂部の主郭にいたる


▲山頂の休憩小屋。草が刈られて整備されている。


▲この眺望では、まさに妻籠は谷の奥のどん詰まりだ


登城口近くの説明板。ここに左近右屋敷があった。
城山茶屋もあったらしい。⇒関連記事

  木曾谷の南端にある妻籠は、室町時代後期に木曾氏の支配圏域に入ったと見られます。それ以前は、美濃の東部を領する遠山氏の支配地だったと言われています。
  「妻籠(つまご)」とは、籠の奥底、つまり谷間のどん詰まりを意味します。これは、福島や藪原など、木曽谷の北部や中部から南方を見ての地形のイメイジです。室町中期までは、妻籠は遠山氏の勢力圏を北からの侵攻・攻撃に対して防御する防衛線でした。
  妻籠よりも北の木曾川の大峡谷の峻険さに比べれば、馬籠峠の険しさは、さしたる障害ではありません。妻籠から馬籠にいたる一帯は、木曾の俊嶺山岳地形から美濃の平坦地にいたる移行地帯と言えます。


切岸あるいは堀切の跡を往く遊歩道


ここは幅広の帯曲輪の跡らしい

  ところが、室町後期から戦国時代になると木曾氏が木曾谷に勢力を広げて、妻籠は美濃方面からの侵攻に対して防御する最前線となったようです。そのための重要な拠点が妻籠城だったと見られます。
  この軍事的な対峙の構図は、沿海部の尾張や三河・遠近江あるいは平野部の美濃からの侵攻圧力に対して山国信濃を守るという形です。
  この侵攻圧力が顕著になったのは、徳川勢によって仕かけられた小牧・長久手の戦いでした。東海地方の平野部の高度な農業生産と商工業に支えられた兵站補給能力は、山城の孤塁を守る山国の戦いとは様相を異にするものだったでしょう。
  とはいえ、美濃から信濃に侵入するためには、木曾川が刻んだ峡谷のなかの険しい隘路を抜けていくしかありません。徳川軍からすると、妻籠から三留野、上松、福島にいたる古い街道を扼し監視している妻籠城(城山)は、まさに「目の上のたん瘤」というべき阻害でした。
  木曾氏の家臣、山村氏はこの戦いで妻籠城に籠城して、桁違いの兵力に立ち向かい、偶然とも言える幸運を得て、辛うじて山城を持ちこたえることができました。
  木曾谷の自然要害を利用して手堅く統治し守るという山村家のスタイルは、江戸時代の福島の関所と代官所の運営に受け継がれたようです。


切岸あるいは堀切の跡を往く遊歩道


ここは幅広の帯曲輪の跡らしい


出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊)

  近世(江戸時代)の中山道は、妻籠城の総堀――大外堀――だった窪地を埋め、土盛りして建設したと見られます。戦国時代には、城山の東側の麓は2メートル以上掘り下げられた空堀になっていたようです。 普段は空堀ですが、この窪地に近くの谷から沢を引いて水を落としていたはずなので、雪解け季や雨季には湿地となっていたかもしれません。したがって、左近右屋敷の立地地形は現在とは相当に異なっていたかもしれません。⇒妻籠城総堀の復元図

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