等覚寺の寺領は三留野家範の居館跡か



等覚寺の堂宇の配置や結構、境内寺領の地形は城砦のように見える。それには理由がある。



出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』



出典:同上

  上の絵図は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻からの引用です。下の地図も同じ出典です。場所は等覚寺の境内とその周囲です。
  三留野家範は、木曽家14代、家方(家賢)の子で、15世紀半ば〜後半に家方が家範を三留野郷の領主として派遣し、飛騨から木曾谷の妻籠方面に連絡する道への防備の役割を担わせたと伝えられています。応仁の乱の前後で、室町幕府の権威が衰退して、地方領主たちが武力に物を言わせて領地拡大の勢力争いを展開してゆく時代です。
  木曽家門の家範がやがて三留野氏を名乗って、三留野一帯の開拓と統治を進めたようです。東山を背後の要害とする高台は三留野全体を見渡せる管制高地で、ここに居館を設けたという言い伝えは確かなことのように思えます。その時代は、城下街集落に近い丘に居館を置いて、背後の尾根筋――東山の尾根――に砦の列を構築するのは定石だったと見られます。
  江戸時代初期の史料には、この地に家範の城館が置かれたので「御殿」と書いて「みどの」と呼ばれたことから、三留野という地名が付けられたと書かれています。
  この時代の領主城館の縄張りと地形をもとにして、やがて禅刹がつくられることになったのではないでしょうか。

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