■藤原系木曾氏の統治拠点だった須原■
藤原氏は上州沼田を領する豪族でしたが、南北朝の争いのなかで、沼田氏を称していた7代領主の家村が1338年(暦応元年)に足利尊氏に属して戦功をあげ、恩賞として木曽谷北部の大吉祖荘を授封されて入部し、木曾氏を名乗ることになります。
藤原流木曾氏は、そののち室町時代後期(戦国時代)にかけて木曽谷を領する信濃の国人領主となっていきます。
やがて木曾谷南部にも勢力を拡大し、家親が1385年(正中2年)、御嶽神社の若宮を御嶽山東麓に建立し、次代の親豊は永享2年(1430年)に禅刹定勝寺(場所は不明)を、1434年(永享6年)には福島に興禅寺を創建しました。
おそらく15世紀半ばまでには、現在の定勝寺境内の背後(南西方向)にある愛宕山の山頂に須原城が築かれ、須原はその城下町として発展したようです。須原城は木曽氏の本城として築かれた山城で、戦国時代に木曽義在から義康の代に福島の上之段城に本拠を移すまで木曽氏の本拠地でした。義在の治世までは福島と須原は、時に応じて領主が行き来する、同格の城下街として統治の拠点となっていたと見られています。
15世紀末から木曾義元は隣接する信濃守護・小笠原氏と争い、さらに西に隣接する飛騨の三木氏と争うことになりました。
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■軍道としての木曾路の宿駅の整備■
1504年(永正元年)、義元は三木重頼との戦いによる戦傷がもとで死去し、1510年(永正7年)、12歳の義在が叔父の義勝の後見を受けて木曾家の後継者となりました。
義在は対外的な勢力拡大策を取らず、先代が争った飛騨の三木氏との関係も修復したりして内政重視の施策に注力しました。そして天文2年(1533年)には、木曽谷を南北に縦断する街道を整備して妻籠から洗馬までの宿駅を定めるなど交通網を整え、信濃と美濃や飛騨との流通を掌握することで経済的基盤を確立しました。
現在定勝寺が境内を構える高台は木曽義在の居館があった場所で、定勝寺は木曾氏の菩提寺として篤く庇護されました。義在の子息、義康は福島に城下町を拡充して統治の中心としたので、須原の重要性はやや低下したようです。
1590年(天正18年)に徳川家康に従った木曾氏が徳川家の関東移封にともなって木曽谷を去ると須原城も廃城となりました。木曾氏に代わって豊臣秀吉の家臣、石川貞清――幼名:光吉――が領主となり、木曾家の居館を破却して現在地に定勝寺を移転し、堂塔伽藍の造営をおこないました。
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