今回の旅では、橋場集落を出発して岩出山の尾根を北に回り込み、須原宿の手前まで歩きます。 尾根裾から須原宿の手前までおよそ1キロメートルほど続く長い下り坂となっています。北側に谷底を流れる木曾川を眺めながら、JR中央西線に沿って600メートルくらい続く山道を歩いて、定勝寺の近くまで向かいます。
  現在この道は県道265号となっています。往古の中山道は鉄道あるいは県道に埋もれてしまっているようです。


◆須原宿をめざして尾根裾を下っていく◆



県道265号を歩いてJR線路を越えたとき、中央西線の特急が横を通過した

樹林が途切れると国道の上に木曾駒ケ岳の峻嶺の列が見えた




▲特急列車は瞬く間に通り過ぎてしまった


▲線路沿いに長い下り坂が続く。彼方の峰は横山らしい。


▲街道脇に広壮な本棟造りの古民家が並ぶ、豊かな農村風景


▲尾根の切れ間の谷間に雨が降ると流れができる沢の堰堤


▲木曾川が削り出した谷間を見渡すことができる高台の道


▲この先で小径は小さく曲がるとことで北側の樹林は途切れる


▲視界は開けて北方に木曾川に架かる橋が見える


▲この辺りで道の向きは真東になり、街並みが見え始める


▲海鼠腰壁の白漆喰土蔵が、農村としての豊かさを示している


▲下の段丘を通る国道19号を眺める


▲旧中山道は、ここで県道から左折して中央の小径に入る

■木曾川を見おろす尾根中腹の道■


樹間から崖斜面の下に木曾川を見おろす

  今回は、県道265号に沿って橋場を出て岩出観音と反対側(北側)の尾根斜面に回り込み、東向きに下っていく長い坂道を歩いて、須原宿の手前まで進みます。この坂は長坂と呼ばれています。橋場からの登り道を含めると、1キロメートルくらいの坂道です。長い坂道なので「長坂」という地名になったのでしょう。
  伊奈川橋の北の橋場から尾根を迂回する道を400メートルほど進むと、上り坂は下り坂に転じてJR中央線を越える踏切があります。その辺りから北方に木曾川の谷間を見おろすことができます。尾根斜面の傾斜はきついので、道は線路に沿って崖の上の高台を須原宿に向かって降りていくのです。
  旧中山道の遺構は、おそらく鉄道線路あるいは県道265号の下に埋もれてしまっているようです。江戸時代の街道の路面は、本来の地形そのままに波打つように起伏していたそうですが、現在の県道は拡幅され起伏が平滑に均された舗装道路です。
  県道の北側の縁は崖ともいうべき急斜面で樹林帯が続いています。尾根裾の高台を往く道で、北側の木曾谷を樹林の隙間から見おろすことになります。谷の底には木曾川が流れているのが見えます。
  道と木曾川の河床までは、近いところで50メートル、遠いところで200メートル近くになり、坂を下るにしたがって木曾川との距離は広がっていきます。川の畔を国道19号が通っています。
  堤防構築など治水土木技術が未発達だった江戸時代には、木曾川の畔はきわめて危険だったので、中山道と宿駅はより高い位置にある河岸段丘や尾根高台につくられていました。

  南から街道脇に迫る岩出山の尾根筋は600メートルくらい東西に延びたところで途切れ、南北に続く谷間となります。谷の東にはさらに高い山の尾根筋が迫っています。尾根の谷間は普段は乾いていますが、雨が降ると沢ができて、大雨のさいには土砂が急斜面を流れ下るようです。ここも蛇抜沢なのです。普段は流水がほとんどない小さな沢が、大雨の直後に大規模な土石流を引き起こすのです。そのため、一見水のない谷の沢筋に土堰堤がつくられています。谷間の麓には街集落があるので、土石流災害はぜひとも防がなければなりません。


谷間の彼方に見えるのは木曽山脈(中央アルプス)

■東方に中央アルプス連峰を望む■

  JRの線路を渡って北脇を歩くようになると、道の北脇の樹林と南に迫る尾根斜面の山林との間に視界が開けてきて、東方の山並みが見えてきます。最初に見えてくるのは、木曾駒ケ岳の前哨とも言うべき横山です。その背後には越百山から木曾駒ケ岳に続く険しい稜線が控えています。
  このページの巻頭2番目の写真は、長坂を降り切ったところから東北方向に開けた谷間の彼方にそびえる木曾駒ケ岳の連峰を写したものです。


修築した土蔵は、古い造りを保っている


画面中央の山裾の樹林は定勝寺の寺域

■木曾川の水害を避ける街道■

  さて、長坂を降り切ると、今度は須原宿に向けて緩やかなのぼり坂になります。この県道265号でも一番低いところには、その昔、木曾川の氾濫で溢れた水が押し寄せてきたそうです。
  緩やかな坂とはいえ、定勝寺と須原宿の街並みがあるところまで300メートル以上の道のりをのぼっていくと、標高差は15~20メートルくらいにはなりそうです。1715年(正徳5年)の氾濫では、今より一段下の河岸段丘にあった古い時代の須原宿の街並みは流失してしまったそうです。
  その結果、須原宿はもうひとつ上の河岸段丘上(現在地)に移転することになりました。
  木曾川の流水の破壊力はそれほどまでに恐ろしかったのです。長野から平沢を経て伊奈川を越えて橋場を回り、長坂を通る旧中山道の道程が尾根裾の高台を通っていた理由がここにあります。
  ところで、江戸時代の中山道は県道の一番低い地点にいたる直前、斜めに左折して、洪水前に須原宿が位置していた街(古町)に向かうことになります。

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