旧長野郷を往く県道265号のうち、長野宿橋から北に、あたかも中山道の宿駅だったかのような町割り(敷地割り)の街並みが200メートルほど続いています。 町割りとは、集落の設計図ともいえるもので、そのあり方は街集落の機能を方向づけるものです。つまり、街並みを構成する住戸・住民が街道においてどのような役割を果たすべきかを示唆する集落建設の計画なのです。 長野村は「間の宿」だったのではないか、そんな問いかけを念頭において、この街を探索してみましょう。


◆長野村(弓矢地区)は街道の間の宿だったか◆



谷間の狭い河岸段丘斜面(弓矢地区)に櫛比するように軒を連ねる長野の家並み
「間の宿」とは2つの正規の宿駅の中間にあって、旅人や輸送業者に簡易な休憩や飲食のサーヴィスを提供する集落のことです。
⇒詳しい情報


▲長野橋の手前(西側)から宿場風の町家がある


▲ここから宿場街風の家並みが始まる


▲昭和中期までは栄えていた痕跡が見られる


▲緩やかに曲がる通りと街並み


▲街の東側の高台から見ると、関山の尾根が北向きに張り出している


▲修築されているが出梁造りの造りを保っている


▲三共のなかの街道脇往還沿いの町の風情


▲軒を連ねる町家の列は、往時の繁栄を物語るようだ


▲街並みの北端近くの様子:この先で県道は国道に合流する


▲かつては道路の近くまで家並みが連なっていたらしい


  江戸時代には木曾川に面した崖を往く杣道は危険だったので、大半の旅人にとっては現在の弓矢地区を南北に縦断することは難しかったと見られます。
  長野村が間の宿になってからも、多くの旅人は街の東にポツンとそびえている小山を回り込んで伊奈川方面に向かったと推定されます。

  ここから南東に500メートル離れた山麓の谷間に天長院という禅寺がありますが、旧街道脇に立つこの寺の説明板には、寛文年間(17世紀後葉)に、長野郷に「合の宿の平沢」があったことが記されています。少なくとも、この近くに「平沢」という間の宿があったということになります。場所が現在地だったのかどうかは検証できませんが。


通りに入ってから長野宿橋を振り返る

  もちろん、「間の宿」または「相の宿」というのは、幕府の公式の制度ではなく、幕府の道中奉行から認められたものではありません。とはいえ、街道と宿場の発達の結果、中山道木曾路を往く多くの旅人がこの街で休憩・休泊を取り、旅程の目途となった特別な場所なのです。
  大桑村長野の弓矢地区(小山の西麓)を通る県道は、国道19号を間に挟んで木曾川河床とは、一番遠いところでおよそ200メートル、一番近いところでおよそ100メートル離れた河岸段丘に位置しています。この道のうち、長野宿橋から北に分岐して国道に合流するところまでが、長野の街集落の家並みとなっています。
  県道の東側には山腹が迫っていて、西側に木曾川の谷間を見おろす位置取りにあります。木曾路のほかの宿場街を歩いた経験がある人なら、ここがかつて宿場街だったと言われれば、疑いなく信じてしまうでしょう。それほどに旧宿駅の風趣をとどめている街並みなのです。
  しかし、この通りは本来の中山道ではなく、街そのものも宿場街ではありません。正規の宿駅ではなかったのです。では、なぜ、これほど宿場街然とした家並みが残っているのでしょうか。
  旧中山道の脇街道あるいは近隣を探索する取材でこの街に訪れたとき、私はそういう疑問を強く抱きました。


山腹が街並みの背後(東脇)に迫っている


高台の上にある弓矢地区の公民館分間

■県道265号の近代史■

  明治政府が旧中山道を文明開化に向けた道路に改造しようと新街道令を発布してから、旧街道からは桝形は撤去され、極端な起伏は均され、屈曲の少ない道筋へ転換が始まりました。しかし、新街道は、基本的に幕末までの街道宿駅制度を少し手直しして引き継ぐ程度の制度でした。道路や家屋をつくる工業技術はその程度の水準だったのです。
  長野に現在の県道265号となる道路が建設され始めたのは昭和期になってからのことだと見られます。木曾川に面する急斜面や崖を改造する機械力が利用できるようになったのは、その頃だからです。
  とはいえ、戦国時代以前の旧い街道の遺構が通っていたようです。が、道幅は3尺から1間ほどしかなく、それを拡幅して沿道に街集落が形成されるようになったのは、江戸後期からではないでしょうか。その頃から長野の街集落が成長して、旅人たちの共同行為として幕末までに自然発生的・便宜的に「間の宿」扱いになったものと見られます。
  その後、昭和前期までに道路沿いに大雑把に見て50軒ほどの住戸が軒を連ねる集落ができたと考えられます。こうして、昭和30年代までは近隣の人びとが集まる商店街として成長し続けたようです。そして、1970年代後半から街並みの老朽化というか過疎化が目立つようになったようです。
  というわけで、脇往還沿いに自然発生的に成長した街集落ですから、街区の敷地割りは近隣の宿場街を模倣したものとなりました。とくに幕府や町役人などによる街づくりの計画や規制があったわけではないので、間口の大きさはまちまちです。
  江戸時代にも明治以降にも、町家の資産として課税評価基準は、道路に面した間口の大きさに比例していたので、富裕な商家住民は屋敷や店舗の間口が大きくなり、そうでない一般住民の住戸の間口は狭くなったのです。
  新街道令が国道法に組み換えられると、この脇往還(現県道)が国道扱いとなり、昭和40年代までは国道19号であったようです。しかし、ダンプやバスなどの大型車が頻繁に通行するようになると、住民の生活は激しい交通によって圧迫されるようになりました。
  やがて、高度経済成長が進展して土木技術が発達すると、交通の安全と円滑化、住民の静穏な生活のために、現在の国道19号が建設されました。おりしもその頃から、弓矢地区の街並みは経済的発展からは取り残されて、過疎化への道を歩むようになります。


左手は街の西には関山の尾根で、その右手は木曾谷

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