今回の旅では、関山を降り旧長野村のなかの中山道を探索しながら歩きます。 しかし、江戸時代の長野村の中山道に関する史料はありません。野尻宿から須原宿まではおよそ11キロメートルもありますが、木曾谷を往く難路険路であるにもかかわらず、そこに間の宿はなかったのでしょうか。正規の宿場ではなくても、豊かな農村であった長野が2つの宿駅の間で旅人や輸送業者に手厚いサーヴィスを提供していたのではないでしょうか。
  そんな問いを抱きながら、鎌倉時代から集落が開けていたという長野から伊奈川河畔まで歩いてみましょう。


◆関山を降り、長野村から伊奈川を渡る◆



長野郷を流れる渓流、獅子子沢。今はおとなしい流れだが、木曾川の蛇行跡にこの扇状地斜面を削り出した。

中山道は右手の山麓を回り込みながら、田園風景のなかを進む。この丘陵の谷間の底に木曾川が流れる。




▲関所跡を過ぎて関山の尾根を回り込んだ先が長野郷だ


▲長野郷に入って振り返る。左に迫る関山の尾根の山林。


▲街道脇に広壮な本棟造りの古民家が並ぶ、豊かな農村風景


▲じつに美しいか前の農家の屋敷


▲大桑郵便局の近隣の家並み:本棟造りの古民家がある


▲修築された古い造りの民家が並ぶ


▲大桑駅からの道路と中山道の交差点


▲猪子子沢を渡る長野宿橋。町集落は宿場あつかいだったのか。


▲長野宿橋から小山を回り込んで南東に向かう小径


▲中山道の右脇の谷間に獅子子沢が流れている


▲谷底を流れる獅子子沢。急勾配の渓流だ。


▲山麓を回り込むようにのぼる中山道


▲谷間の丘陵に棚田が連なる美しい田園風景


▲左手の山麓を回り込んで中山道は伊奈川河畔に向かう。


▲正面の小山は、ドーナツの真ん中に木曾川が削り残した山塊

  天長院の周囲に広がる豊かな田園地帯から北に小山を眺める。ここから伊奈川の畔までは1.6キロメートルほどだ。

■輪ドーナツ型の谷間を往く■


集落入り口の家並み

  野尻から須原に向かう木曾谷沿いの旧街道を遮る関山――その突端に木曽殿関所跡がある――の尾根。それを東に回り込むと旧長野村に入ります。平安時代からの歴史がある村落群です。
  ここは、太古に木曾川が南に蛇行して輪ドーナツ型の谷間を削り出したところです。輪ドーナツの真ん中に小さなな山が残されています。長野郷を往く中山道は、この小山を回り込むようにして伊奈川河畔に向かいます。
  ここは傾斜はきついのですが、南に向かって扇状地の谷間が開け棚田が連なっているせいか、豊かな農村地帯という感じがします。1000年以上前から農耕地と集落が開かれてきた地帯で、平安末期には木曾源氏の義仲が勢力を培い、やがて平家打倒をめざす挙兵行軍の出発点となる拠点となったと伝えられています。
  集落に入ると、本棟造りの伝統的な造りの古民家がところどころに残っています。昭和期から平成期にかけて補修・修築されたと見られる美しい白壁の住居群が印象的です。非常に広壮な構えの家屋があって、この村の豊かさ、そして歴史の深さを感じさせる家並みです。

  街道に面した屋敷地は間口も奥行きも大きいという地割りで、その形から、この集落は本来、旧中山道の宿駅として建設されたのではなく、農村集落が成長して街を形成するようになったところに中山道が開かれたという歴史の流れが見えてきます。


屋敷の構え。村役人の住居だったのだろうか。


現代風に補修した窓の外観

■宿駅風の街並みがある■

  さて、猪子子沢という渓流を渡る長野宿橋で、道は分岐します。左(北)に往く往還沿いには、あたかも宿場街ような短冊形の、間口が狭く奥行きが深い敷地割りの街区をなしていて、他方、右手に進むと沢沿いの田園風景となります。
  対照的な家並みの形があるのです。ここで大きな疑問がわきました。橋の名前です。今はコンクリート製の造りですが、古くからの沢越えの橋のようです。「長野宿橋」という名前が付けられています。単に「長野橋」ではなく、「宿」がついているのです。
  なるほど、岐路で歩みを北に取ると、いかにも古くからの宿場町に似つかわしい町家が軒を連ねて密集する街並みが200メートルほど続きます。つまり、長野村に「宿場街」あるいは「間の宿」があったのかもしれないということです。長野が宿駅または間の宿だったという史料は、今はどこにもありません。史料=記録が失われたのでしょうか。
  島崎藤村の小説『夜明け前』は、幕末から明治維新の頃にかけて、江戸と京都を結ぶ中山道では、またことに美濃に近く京洛に近い木曾路では、尊王倒幕思想に動かされた民衆運動がことのほか激しく繰り広げられたことを描いています。街道宿駅で江戸幕府の権威の象徴だと見なされた施設や文物が攻撃されました。とくに神仏分離運動は明治政府の威嚇と教唆のもとで熾烈だったようです。 騒乱のなかで、長野でも街道と宿場をめぐる史料や文物の多くが破棄されたり失われたりしたことも考えられます。

  というわけで、この謎を探るために機会をあらためてこの不思議な宿場然とした街並みを探索することにします。しかし今回は、橋の東に迫る孤立した山を南東に回り込んで、おそらくは中山道の本道だったと見られる小径を進むことにします。
  それにしても、ここまで旧街道を辿って長野郷には2つの顔貌があることに気がつきました。ひとつは豊かな農村と田園風景が広がる面差し、もうひとつは木曽路としては発達した密集した都市的な集落という面差しです。

■田園風景のなかを往く■


中山道の左(北)脇は小山で、右脇は谷間


谷間の底を流れ下る渓流、獅子子沢

  さて、長野宿橋の近くの岐路から東に道を取り、山麓を回り込んで伊奈川河畔に連絡する旧中山道をのぼっていくことにしましょう。
  旧街道の左脇にはずっと山林――谷間の平坦地に島のようにぽっこりと盛り上がった小さな山塊――が続いています。一方、右脇は小さな渓谷になっていて底を獅子子沢が流れています。この沢が、木曽川左岸にある長野郷の扇状地を形成したのです。
  私たちは、山麓を往く小径を歩くことになります。沢の南側には山の中腹まで棚田が連なっています。棚田には沢の上流部から用水路が引かれていて、広大な棚田地帯に豊かな水を供給しています。


山林と沢に挟まれた旧中山道(西方を振り返る)


小径は左手の山を回り込んで北向きに転じる

  長野宿橋から獅子子沢に沿って農道然とした旧街道を800メートルほど進むと、右手に寺院の堂宇の大きな屋根を見つけることになります。これが天長院という禅刹です。この寺には別に機会に訪れることにします。
  天長院への参道を過ぎて200メートルも行かないうちに、左手の小山の尾根は終わり、街道はここでほぼ直角に曲が曲り、北向きに転じることになります。


旧街道の南脇に天長院本堂の大屋根を眺める

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