今回の旅は、上松宿を出て木曾川左岸(東岸)の中山道を歩き沓掛をめざします。
  上松宿の北に続く愛宕山西麓を歩いて、国道19号上松第3トンネルの北端(笹沢)まで来ると、またもや険しい尾根に往く手を遮られます。往古、この尾根を越えて新茶屋に向かったのでしょうが、中山道の痕跡は見出せません。 新茶屋から沓掛まではいっそう峻険な岩壁の岸辺を歩くことになります。そこに木曾のかけはしと呼ばれた危険な桟道があったそうです。


◆上松を出て沓掛まで 木曾川左岸の中山道◆



かけはし大橋の近くの石垣遺構。石垣は架橋のための護岸として慶安元年から寛保元年(1648~1741年)
にかけて施工・改修された。写真出典:『木曾路大紀行 第2巻』。撮影は国道建設の前で、1962年。




▲活況用の石垣護岸跡:撮影は1950年代か。出典:『木曾路』


▲左岸の旧国道19号で下流(斧淵・上松宿)方面を眺める。


▲上流、沓掛方面を眺める。往時の街道は急斜面の縁を往った


▲かけはし大橋。北に50mほどの位置に架橋があったという。


▲両岸が崖岩壁となっていて、街道はつくれそうもない


▲江戸時代の中山道旅案内の絵図が描く木曾の桟
 現在の木曾川左岸の道路より5メートル以上高い位置にあった

 慶安元年に石垣の護岸を築き、それを架橋の足場としたという物語は、それだけではきわめて不十分です。
 というのは、木曾川右岸に渡ったとすると、福島宿にいたるまでに再び左岸に渡河しなければならないからです。では、左岸に渡る方法は何だったのでしょうか。
 架橋が難しかったとすると、渡し船で渡河したのか。おそらくそうだろうと考えられます。木曾川の船着き場(川湊)は何か所かにあったと記録されています。しかし、中山道の経路としての船着き場はどこだったのでしょうか。
 渡河地点はおそらく、流速が緩やかで流水量がきわめて大きくなる木曾川と王滝川との合流部の下流側だったのではないかと推定できます。

 もちろん、王滝川を船で渡って福島宿に向かう右岸の脇街道がありました。平安時代から、妻籠宿から福島宿までの間には、合わせて10か所以上の川湊(船着き場)があって、互いに対岸の集落や耕作地、山林に行き来する小径がありました。

  上掲の写真は「木曾の桟(桟道)」の遺構ではありません。これは架橋のために築かれた石垣護岸の遺構です。

◆崖のような岩壁を往く中山道◆

  往時、十王沢を越えて上松宿を出ると、西に張り出した愛宕山の尾根に往く手をはばまれることになり、この尾根をのぼって越えるか、それとも鬼淵の畔まで下るかということになりました。
  旧中山道は鬼淵の畔まで降りてから北に進路を取り、現在、鉄道が通っている辺りの木曾川左岸を歩いて、国道19号バイパス上松第3トンネルの北側の出入り口(笹沢)をめざしたと見られます。
  ということは、中山道の痕跡は鉄道や国道の建設で失われてしまったということです。地形は大きく改造されています。
  さて、そこから先、旧中山道はどのような道筋をとったのでしょうか。
  とにかく目の前の往く手(北)を遮る険しい尾根をどう超えるか、それが問題です。
  トンネル出入り口から国道は土盛り嵩上げされた路盤となっていて、鉄道は国道を高架で越えています。やや大きめの谷間となっていたはずです。すると、西に張り出した尾根裾を回り込んで進んで木曾川の河畔に出るしかなかったでしょう。⇒旧街道の道筋の推定
  ここから上流部の木曾川は危険なほどに急な激流なので、斜面が急であっても川面よりも相当に高いところを通るしかありません。800メートルほど北に板橋沢とドドメキ沢の谷間に挟まれた傾斜が緩やかな尾根高台があって、立場茶屋跡があるそうです。新茶屋と呼ばれていました。
  そこから「かけはし大橋」までは、比較的に安全な河岸段丘崖の上を歩いていくことができそうです。危険なのは、大橋を過ぎてから先の200メートルほどで、急峻な岩壁が木曾川に落ち込んでいます。

◆木曾の桟(桟道)◆

  ここに有名な「木曾の桟」(桟道)が何か所かに施されていたそうです。
  しばしば勘違いされるのですが、「木曾の桟」とは石垣跡から両岸に架された橋のことではありません。それは「架け橋」と記すべき「かけはし」で、往時、棧=桟道と呼ばれたのは、岩壁にへばりつくように取り付けられた特殊な木道のことです。
  現在、かけはし跡として保存されている石垣は、木曾川の岩壁両岸が一番狭まった位置の両岸に石垣を組んで架橋の土台を設けた遺構なのです。つまり、そこから対岸に木製の橋を架した石垣護岸の遺構です【巻頭写真】。

  ところが、本物の木曾の桟はこうなっていました。
  江戸時代初期までは、木曾川左岸(東岸)の岩壁に突き出た幅の狭い岩棚を――崖の上に生い立つ樹木から垂らした藤や蔦の蔓を命綱として――伝っていたようですが、やがて岩壁に木材を差し込むための穴を穿って、そこに丸太や角材を嵌め込んで崖から張り出す枕木とし、その上に板や木材を組んで敷設して桟道をつくったのです【左下の絵図参照】。
  この技術は、古代中国では1800年前にはすでにあって、三国時代の蜀が魏に遠征するために岩壁に穴を穿って枕木を嵌め込み、それを支えとして軍道を建設したという物語が『三国志』に描かれています。
  さて、左に掲載した江戸時代の道中旅案内の絵に描かれているのが「木曾の桟(桟道)」です。懸崖の絶壁を往く桟道で、危険きわまりない経路です。
  この場所では、頻繁に落石や岩棚の崩壊が発生したそうです。それによって参道は破壊され、そいのたびにつくり直したそうです。ついに慶安元年に幕府の事業として、木曾川の川幅が一番狭い箇所の岩壁に石垣を施して架橋用の護岸をつくり、対岸まで架橋したそうです。
  この危険地帯を越えれば、沓掛一里塚まではあと一息です。

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