木曾十一宿の宿場役人たち
妻籠の北にある城山の頂上から妻籠宿の街並み全体を眺望する
街道制度としての中山道と宿駅の仕組みや機能については、すでに木曾路の事情に即して解説してありますので、この記事を読むときは、それを参考にしてください。。
妻籠宿本陣跡 島崎家が本陣を経営していた▲
ここでは、中山道木曾路の各宿場の統治階級(支配層・指導層)の家門・家系とその社会的出自について考察することにします。まず以下に、11か所ある木曾宿場街の村役人(=宿場役人)の家門リストを掲げます。塩尻に近い方から遠い方に、という順番です。
ここで、年寄とは庄屋や名主を補佐する役人です。農村なら組頭や百姓代に当たる職位です。( )のなかは屋号です。当時役所に対して屋号で名前を記載したのは、名字(苗字=姓)を公式に名乗ることが許可されない階層(身分)に属すと見なされていたからでしょう。
宿駅名 | 庄 屋 (村 役) | 宿 駅 役 人 |
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贄川宿 | 千村右衛門次 |
本陣 千村右衛門次 脇本陣 贄川清吾 問屋 千村謙十郎 年寄 倉沢源左衛門(伊勢屋) 太田三左衛門(大田屋) 年寄 小沢繁衛門(俵屋) |
奈良井宿 | 問屋兼務 手塚民輔 問屋兼務 手塚六郎衛門 |
本陣 亀子九郎右衛門 脇本陣 手塚六郎衛門 年寄 原八百助 鈴木半左衛門(鈴木屋) 鈴木倉五郎(みよしや) |
藪原宿 | 名目問屋兼務 寺島十衛門 | 本陣 寺島十衛門 脇本陣 古畑又左衛門 問屋 古畑又左衛門 年寄 山崎次郎左衛門 古畑伝十郎(かめや) 湯川九郎衛門(山形屋) 年寄 一ノ瀬又十郎 |
宮ノ越宿 | 問屋兼務 都築孫左衛門 | 本陣 村上弥惣衛門 脇本陣 都築孫左衛門 問屋 村上弥惣衛門 年寄 斎藤治右衛門(ふじや) 村上茂左衛門(よしのや) 年寄 原仁右衛門(となりや) |
福島宿 | 問屋兼務 白木郷左衛門 問屋兼務 亀子孫大夫 |
本陣 白木郷左衛門 脇本陣 亀子孫大夫 年寄 武居兵四郎(さらや) 杉本仁左衛門(入屋) 鈴野惣右衛門 年寄 上田黒兵衛 新井徳右衛門 |
上松宿 | 問屋兼務 塚本次郎右衛門 | 本陣 塚本次郎右衛門 脇本陣 小松庄兵衛 問屋 原鉄太郎 年寄 小松源兵衛 岡村儀平次(いわいや) 原五郎右衛門(つぼや) 年寄 岡村新右衛門(よしのや) |
須原宿 | 問屋兼務 西尾次郎左衛門 | 本陣 木村平左衛門 脇本陣 西尾次郎左衛門 問屋 木村平左衛門 年寄 山本市左衛門(山本や) 島瀬九郎右衛門(松や) 西尾市次郎 年寄 太田徳左衛門(十一や) |
野尻宿 | 木戸彦左衛門 | 本陣 森喜左衛門 脇本陣 木戸彦左衛門 問屋 森喜左衛門 古谷久左衛門 年寄 平尾小左衛門 木戸儀左衛門(わきや) 野尻太郎左衛門(おくや) |
三留野宿 | 宮川六郎左衛門 | 本陣 鮎沢弥左衛門 脇本陣 宮川六郎左衛門 勝野太平 問屋 鮎沢孫右衛門 年寄 勝野藤左衛門(西のや) 福井利右衛門 (小松や) 年寄 西尾幸右衛門(ふじや) 林九右衛門(はやしや) |
妻籠宿 | 問屋兼務 島崎与次右衛門 | 本陣 島崎与次右衛門 脇本陣 林六郎右衛門 問屋 林六郎右衛門 年寄 原佐左衛門(にし田) 大屋曽右衛門(大屋) 牧野孫右衛門(大のや) 年寄 加納清左衛門(加納や) |
馬籠宿 | 問屋兼務 島崎吉左衛門 | 本陣 島崎吉左衛門 脇本陣 峰谷源十郎 問屋 原三右衛門 年寄 峰谷源十郎 峰谷孫右衛門 大脇兵右衛門 峠谷利助 |
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馬籠宿本陣跡にある島崎藤村記念館▲
ところで、奈良井宿の役職者に手塚姓がありますが、これは漫画家、手塚治虫の先祖に当たる家門です。手塚先生の先祖は、木曾にいたのですよ!
さて、馬籠宿と妻籠宿の村役人(町役人)に島崎家があるのが気になります。そうです。文豪、島崎藤村の先祖と親戚の家系です。この家には戦後期〜江戸時代の膨大な古文書が保存されていて、あの小説『夜明け前』という歴史物語を描く史料=資料となったのです。
で、その『夜明け前』には、小説では主人公の家門、青山家となっている島崎家について、こう書かれています。主人公、青山半蔵の父、吉左衛門が息子や家族に語る青山家(島崎家)の歴史についてです。
「・・・その家族の歴史・・・そういう吉左衛門が青山の家を継いだ頃は、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。
・・・青山家の先祖が木曾に入ったのは、木曾義昌の時代で、おそらく福島の山村氏(*尾張藩木曾代官家ー引用者注)よりも古い。その後この地方の郷士として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。
慶長年代の頃、石田三成が西国の諸侯をかたらって濃州関ケ原へ出陣の折、徳川大徳院(*秀忠)は中仙道を登って関ケ原の方へ向かった。そのときのお先立には山村甚兵衛、馬場半左衛門、千村平右衛門などの諸士を数える。
馬籠の青山庄三郎、またの名重長(青山二代目)もまた、徳川方に味方し、馬籠の砦に籠って犬山勢を防いだ。 ・・・その後、青山家は帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役のも、を兼ねるようになったのも当時の戦功によるものであるという。」
(出典:島崎藤村 『夜明け前』 (新潮文庫版)第一部 上 p33−34 )
妻籠宿脇本陣は屋号が奥谷で林家が経営していた▲
これを解題すると、島崎家は室町時代中期には馬籠や妻籠、木曾福島、奈良井などを含む木曾で有力な地侍(地頭小領主)で、やがて木曾家がこの地の有力上級領主になると、その家臣となって木曾地方の代官を務めたが、近江から有能な武将、山村氏が派遣されると、山村氏が木曾氏の家老格の重臣となったので、村山氏の配下(家臣)となった、というしだいです。
要するに統治を担う小領主=特権階級で、識字と算勘の才を保有する階層だったということです。 前回示した、幕藩体制のもとで各宿駅で庄屋や本陣などの役人を務めた家系も、島崎家とほぼ同じ階層の人びとです。
いわば土着=在地の下級領主層で、戦国時代の終焉とともに郷士という名誉・名望は保ちながらも、百姓=大地主として農業経営または土地経営に基礎を置いて商業(商品貨幣経済)にも手を染めていた階層です。
ところが、木曾一帯を政治的=軍事的に支配していた木曾義昌の家門は、覇権を掌握した豊臣家、次いで徳川家によって木曾から引き離された場所の領主にされてしまいました。
一方、しだいに天下の覇権を握りつつあった織田家や豊臣家によって近江から木曾に派遣=移封されて木曾家を補佐した――監視し掣肘したとも言える――山村家は木曾代官として引き続きこの地にとどめられ、豊臣政権や徳川幕府を支える家臣=有力領主として地位と権力を尊重されました。
秀吉は、北条氏を攻めて攻囲戦に持ち込んださい、その当時は徳川家に臣従していた木曾義昌を家康とともに北条家包囲戦に派遣して下総の城砦を守らせ、北条が屈服して「天下統一」を成し遂げた後もそのままその地の領主として固定しました。
家康も、その路線を踏襲しました。
豊臣家も徳川家もともに、交通(古中山道)の要衝であり、森林資源(木材)の宝庫である木曾を直轄支配するために、戦国末期まで木曾で地方覇権を握っていた木曾義昌をそこから遠ざけたのです。
一方、上級領主に忠実・有能な官吏(武士官僚)である山村家は、代官、すなわち中央政権の木曾地方への権威=権力の伝達装置としてその地にとどめ置いたわけです。
ところが、馬籠・妻籠の島崎家のような土着の下級領主=豪農であった家系に対しては、中山道と木曾地方の統治(秩序維持)のために在地支配層=指導層として丁重に扱いその地に残したのです。
そして、在地での農村集落・宿場集落建設・開拓の指導的な担い手としたのです。
▲上問屋手塚家の町家遺構: 2軒の手塚家は半月交替で問屋業務をおこなっていた
ことに街道宿駅の運営=経営は、貨客の輸送継立て、宿泊サーヴィスという物流システムの経営には識字=文書作成、算勘(商業計算)などの能力が不可欠だからです。
宿駅の本陣の当主は、毎年、幕府の道中奉行に対して年次会計(収支)の報告文書を提出する義務があったのです。
奈良井の豪族、手塚家は、 昭和期になって手塚治虫という天才的マンガ家――医学博士号を取得するほどの秀才で、物語の創作能力抜群――の子孫を生み出すだけの経済的な余裕=資産をもつ家系で、子弟に代々、高度な教養文化を学ばせ仕込む風習を保持してきたのです。
あれほどの知性(才能)を育成するには、やはり数代以上にわたる家系的な努力と幸運が必要なのです。
文豪、島崎藤村の才能と素養もまた、馬籠と妻籠の島崎家の累々たる営為と資産、幸運がなければ、出現しなかったのではないでしょうか。