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岐阜県中津川市
~長野県塩尻市
  これは、中山道木曾路の南端、馬籠宿から木曽谷をめぐり歩き、塩尻をめざす旅の記録です。 宿場街だけでなく、その間の街道沿いの自然風景や地理、歴史と文化、街や村の家並みを探索する旅で、できるだけ江戸時代の旅人の心情を想像しながら歩きます。
写真は奈良井宿の街並み風景。

■塩尻以東の中山道■

中山道 木曾路めぐり 馬籠から塩尻をめざす旅

馬籠宿を歩く

  木曾路の最南端の宿場街、馬籠を歩き、街並み景観を観察しながら歴史と地理、文化を探ります。
  現在は岐阜県中津川市に属す馬籠では、信州の木曾谷と少し違う街の風土や雰囲気を発見できるかもしれません。
⇒馬籠峠を歩く


馬籠宿の車坂。背景の山は恵那山

大妻籠を歩く

  馬籠峠の最北端、妻籠宿に下っていく手前に大妻籠集落があります。今日の木曾路で最も古い時代の中山道沿いの集落の面影を残しているところです。
  妻籠宿では味わえない「妻籠らしさ」「木曾路の原風景」を味わうことができます。
⇒神明砦を探索する


大妻籠の神明集落の家並み

妻籠宿の街並みを探る

  妻籠の街並み歴史的景観の保存運動を探り、地理的環境に調和した街並みの姿を深掘り探索します。
⇒妻籠宿桝形跡を探る
⇒妻籠小中学校跡を訪ねる
⇒光徳寺を訪ねる
⇒和智埜神社を訪ねる


妻籠宿桝形復元図: これが江戸時代初期の宿場街の姿

妻籠宿から上久保一里塚跡まで歩く

  旧中山道を歩いて妻籠宿北端の口留番所前から上久保の一里塚跡までたどります。宿場と宿場との間にある山里集落や史跡遺構、寺院や神社、自然景観をゆっくり見て回ります。

⇒街道脇の住宅の敷地を石垣で支える理由
⇒上久保一里塚を探る

妻籠鯉岩前の家並み。郊外なので古い家並みが保存されている。

城山妻籠城跡を探索する

  妻籠の北にあって木曾川河畔の谷間に尾根峰を張り出している城山には城砦跡があります。これは、平安時代末に築城が始まり、形を変えながら戦国末期まで続いていた妻籠城です。城砦遺構をめぐり、城の構造を探ります。

⇒左近右屋敷とは何か
⇒妻の神土塁の実相を探る

城砦の主郭があった山頂から妻籠宿を眺める

千沢渓谷から旧三留野村和合まで歩く

  上久保一里塚を過ぎるとまもなく千沢渓谷です。ここには美しい竹林のなかを往く石畳みの坂道があります。さらに、村落全体が和風庭園のように緑豊かな神戸集落を通り、和合まで歩きます。
⇒かぶと観音・神明社を訪ねる
⇒蛇抜け沢を探索する


千沢渓谷の美しい竹林。この下に石畳の坂道がある。

園原家屋敷遺構を訪ねる

  JR南木曽駅と桃介橋を見おろす丘の上に園原家居宅遺構があります。中山道の東脇にあるこの遺構は、東や神社神官を務めた園原家の館です。江戸中期の神官家の造りを保っています。

⇒桃介橋を訪ねる
⇒田園風景のなかを往く中山道遊歩道 案内記事

背後の棚田跡から見おろす園原家館遺構

三留野宿を歩く

  三留野の集落は鎌倉時代からあったと伝えられています。戦国時代には木曾氏一族の居館があったようです。江戸時代はじめに中山道の宿駅となりました。木曾川を見おろす急傾斜の谷間の斜面に位置する街です。
⇒三留野宿南端の桝形 復元絵図
⇒三留野愛宕山城跡を探る


三留野宿の上仲町の家並み。明治の大火後に再建されたという。

三留野宿 等覚寺を訪ねる

  中山道三留野宿の東側の高台にある禅刹、等覚寺を探訪します。境内寺域は東山の麓にあって、東山には戦国時代まで木曾氏の砦がありました。
  桝形の真上に位置していて、戦時には東山神社とともに三留野の軍事的防衛の役割を果たすべく位置取りされ建立されたと見られます。
⇒三留野家範居館跡を探る


小ぶりの城郭のような等覚寺の結構

三留野宿 東山神社を訪ねる

  幕末までは牛頭天王社と呼ばれていた神社です。そして、神仏習合の制度に沿って、等覚寺と一体化して三留野の人びとの信仰のよりどころとなっていました。境内の上の東山峰頂には戦国時代まで木曾氏の砦があって、神社の境内は砦への登り道を防衛する監視台が置かれていたと見られます。
⇒三留野東山砦跡を探る


山腹に位置する東山神社の境内と社殿

中山道砥川道を歩く 東山社仮宮~結い庵

  古代に拓かれた木曾古道(木曾川東岸往還)の遺構に沿ってつくられたという中山道与川道をたどる旅。できるだけ江戸時代の与川道の痕跡や遺構を探索して、伊奈川渓谷の橋場まで歩きます。
第1回の記事は、三留野東山神社仮宮から上の原を経て「結い庵」までの探索旅の報告です・
⇒砥川道 正善沢から小野川平までを歩く


与川道 上の原の棚田地帯を往く

羅天・柿其・十二兼をめぐる

  三留野宿を出て北上し、いよいよ崖沿いの木曾谷を歩きます。ここには狭く深い谷間しかありません。国道19語彙沿いに歩いて、柿其入り口ぁら中川原峡の花崗岩質の岸壁と柿其渓谷、深い山峡にある十二兼の集落を訪ねます。
中川原峡と柿其橋
八剱神社と水路橋


「南寝覚」と賛嘆される中川原峡の絶景

十二兼の集落を歩く

  旧中山道は、崖の上の高台にある十二兼集落を通り抜けて野尻宿に向かいます。この村は、往古、熊野権現社を中心とした古来の密教修行の拠点として発足したと見られます。
⇒熊野権現社を訪ねる
⇒中山観音堂を訪ねる
⇒石仏・石塔の探索
⇒八人石跡を探る
⇒袖山の裾の尾根峰上の熊野社跡を探る


十二兼の集落: 背景の樹林は熊野権現社の社叢

阿寺橋近辺と下在郷を歩く

  阿寺渓谷は中京から関西方面からの観光客に高い人気を誇る景勝地です。しかし残念ながら、旧中山道野尻宿とその近隣の農村にはあまり関心が向けられていません。
  今回は中山道から少し離れて阿寺橋界隈を歩き、次いで、国道261号沿いの下在郷集落を探索します。
⇒下在郷の中山道を歩く
⇒野尻宿近辺の木曾谷の雄大な風景
⇒野尻宿めぐり絵地図


改修され吊り橋構造となった阿寺橋

野尻宿を歩く 1(西のはずれから駅前まで)

  野尻宿の街並みは中仙道に沿って屈曲し、「七曲り」と呼ばれています。戦国時代に野尻を敵軍から守る防衛として道を屈曲させたと言われていますが、本当の理由は地形にあるようです。そんな謎を含めて、野尻宿とその近隣の歴史と文化、地理地形を探索する旅となります。
  野尻宿の街並みを2回に分けて探ります。今回は「西のはずれ」という屋号の町家から野尻駅前までを歩きます。次回は、駅前から宿場街の東端までを歩きます。
⇒野尻宿を歩く 2 (駅前~高札場跡)
⇒野尻の寺社めぐり 妙覚寺探訪
⇒野尻愛宕山城跡を探る


材木問屋が明治期に建てた古民家町家

⇒■野尻街かど博物館■
街のカフェにある懐かしい
野尻の風景写真

須佐男社を訪ねる

  伝説では、京都の八坂社(祇園社)から持ち出されたご神体をこの山林に祀ったということになっています。およそ360年前に尾根峰から現在地に正座されました。
  江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていたと見られますが、明治維新での神仏分離・廃仏毀釈政策によって、寺院から分離されて須佐男社と改号されました。
⇒覚明社を訪ねる
⇒鹿嶋社を訪ねる
⇒地蔵菩薩と石仏群を探る
⇒上町と荒田の祠堂を探る


須佐男社の参道入り口の大鳥居

野尻宿を出て上在郷を経て関山まで歩く

  今回の旅は、まず野尻宿の東端にある高札場跡から倉之坂をくだり、JR中央西線に沿って上在集落に向かいます。旧中山道はひたすら木曾谷の山林のなかを往く道です。
  そして、上在集落から国道19号に合流して、木曽殿関所跡をめざします。


木曾川を見おろす山道で木曾駒ケ岳を遠望する

長野郷の中山道を歩く

  長野郷は木曾川が南に大きく蛇行して削り出したループ状の谷間に形成された集落群からなっています。平安時代後期には農耕地と村落が開かれ、やがて木曾源氏の領主団が義仲を盟主として平家打倒の遠征を企てました。 古い歴史がある長野の中山道を歩いて伊奈川河畔をめざします。
⇒長野郷の地理と歴史を探る
⇒弓矢地区の街並みを探る


棚田が連なる谷間の斜面をのぼって伊奈川をめざす

橋場の岩出観音堂を訪ねる

  長野郷から橋場までの中山道沿いには、由緒来歴が不明の寺院がいくつかあります。 そのうち伊奈川河畔の橋場では岩出山の崖の岩窟にあったという馬頭観音堂を探訪し、その歴史を推定・想像します。
⇒旧平沢集落にあった天長院を訪ねる
⇒弓矢八幡宮を訪ねる(取材中・未公開)
⇒長坂をくだって須原宿の手前まで


懸崖の下、懸造り櫓台の上にある岩出観音堂

須原宿を歩く

  現在の須原宿の街並みは、1715年の木曾川大氾濫で壊滅した跡で、一つ上の高台に移転して再建されたものです。 室町時代に発足した集落が江戸初期に中山道の宿駅になったのです。そんな須原の歴史と文化を探索する旅です。
⇒江戸時代の須原宿西端の街道と家並み
⇒須原宿を歩く 2 茶屋町から仲町まで
⇒須原宿を歩く 3 仲町から高札場・桝形跡まで


須原宿の茶屋町から仲町にかけての風景