原野の東端を流れる松沢川の谷間辺りから宮ノ越下島一里塚跡までの区間は、昭和期に旧中山道の道筋がつくり変えられたようです。この区間は南から山裾の斜面が木曾川に向けて迫り、河岸段丘の高低差が大きいので、旧街道をつくり変えた県道267号は低湿地の水田地帯を避けて段丘上に建設されたものと見られます
  そして、一里塚跡の近くで県道は旧中山道の跡に沿って宮ノ越まで連絡することになったようです。松沢から下島までの間には旧中山道の痕跡は見つかりません。


◆鉄道・道路建設で旧街道の跡は消えた◆

 
木曾川河畔(松沢川の北東側)の農耕地帯と段丘崖との境目を通る草道(農道)は旧街道の痕跡かもしれない




▲原野の東端の家並み。この先で県道は右に曲がる。


▲正面の家並みの背後に松沢川の谷間がある


▲家並みがある段丘面の下の段丘を旧街道が通っていたか


▲水田と栗畑の背後の高道が中山道の跡か


▲この川の脇の斜面を中山道が通っていたか


▲県道267号から段丘崖下の生コン工場を見おろす


▲中山道跡はガードレールの県道の下に埋もれているようだ


▲宮ノ越下島一里塚跡の碑: 段丘崖の上には鉄道が通っている。
 段丘斜面を削って旧国道を建設し、路盤を均すために嵩上げしたので、地形は大きく変わり一里塚跡も含めて旧街道の跡は失われた。

◆河岸段丘と低湿地◆

  原野集落の東端を松沢川が流れ下っています。この川が流れている扇状地は、無佐沢川河畔よりも5メートル以上高い台地状になっています。松沢川の流水量がかなり小さいので、無佐沢川と比べてさほど深く尾根の間を浸食しなかったためでしょう。
  その分、木曾川左岸の低湿地とその南側の山裾との標高差が大きく、連なる河岸段丘との高低差が大きく傾斜が急になっています。
  江戸時代の中山道の本道は、原野集落の東端で、松沢川の谷間に降りていって流れの緩やかになった地点で渡ったものと推定できます。もちろん、木曾川の増水に備えた脇道は上の段丘上を往ったはずですが。
  さて、昭和中期に旧街道に沿って整備された初期の国道19号は、現在県道267号になっています。初期の国道は、腹の東端から下島までは、やはり木曾川の水害を回避するために、河岸段丘斜面をつくり変えて、旧中山道よりも高い位置に初期の国道を建設しました。
  また旧国鉄中央線の整備にあたっては、原野の東の外れから宮ノ越までは、これまた木曾川の水害を避けるために、初期の国道よりもひとつ高い段丘上に敷設したものと見られます。

◆旧中山道の跡を探る◆

  現在の県道267号は、松沢を越えたところで段丘をひとつ降りて下島の低地に向かいます。そのため、JR中央線と交差することになります。とはいえ、下島の低地よりも高い位置を往くために河岸段丘斜面を切通して、水田地帯よりも数メートル高いところに路盤を設けました。日義体育館の敷地と県道は高低差が5メートル近くにもなっています。
  ところが、江戸時代の中山道は、その段丘面と水田地帯との間の斜面を通っていたものと推定されます。したがって、初期の国道建設で地形が改造され、旧街道の痕跡は失われてしまいました。
  とはいえ、松沢川から日義野球場の西側までは、下島まで続いていた江戸時代以来の農耕地帯が残されています。その区間なら、旧街道の痕跡が残っているかもしれません。
  水田や畑が広がる農耕地帯に行って探索してみたところ、県道が通る段丘の下を往く草道(農道)が旧街道の跡ではないかという印象を受けました。

  明治時代までは、南から木曾川に向かって伸びる尾根丘の斜面が、現在の生コン会社や日義体育館がある低湿地に向かって下っていたようです、が、昭和中期の国道19号建設にさいして、斜面を切通して削り路盤をかさ上げしたと見られます。そして、路肩側を急斜面の段丘崖につくりかえたようです。
  南側の丘尾根から流れてきて低湿地を東から西に流れていた沢を擁壁(段丘崖)側に移して用水路とし、そこに湿地の水を落として木曾川に流し込んで干拓し、水田用地あるいは工場用地を造成したのではないでしょうか。

  以前、木曾路の高齢者に聞いたところでは、明治期の後期に国道になってからも昭和前期までは宿場町のなかでも中山道は路面の起伏が激しく、あたかもラクダの背中のようだったそうです。土木技術が未熟で重機がなかった時代(1960年代よりも前)には、道路の起伏を均したり拡幅したりすることも容易ではなかったのです。
  昭和20~30年代に中山道沿ってつくられた旧国道を整備し、拡幅・舗装する工事では旧街道脇の法面斜面を削ることもあれば、路面に土盛りしたり削ったりすることもあったようです。もちろん、経路そのものを変更することもありました。こうして、旧街道の痕跡は消えていったのです。
  下島の一里塚跡の前後の地形もすっかりつくり変えられ、旧街道と一里塚の痕跡は失われてしまいました。

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