原野の東端、集落を見おろすような尾根裾の高台に臨済宗の禅刹、法泉山林昌寺があります。
  木曾路の宿場街にある禅刹の多く――たとえば須原の定勝寺や上松の玉林院など――は、木曾川と宿場集落を見おろす山裾の高台に位置していて、あたかも集落を見守る城館のような立地になっています。というのも、領主の城館の跡地に創建あるいは再興されたからです。林昌寺も同じような立地で、あたかも城館のような相貌と風格を備えています。


◆真言密教の修験霊場が起源か◆



国道19号を挟んで林昌寺の堂宇と境内を眺める。背景に木曾山脈の峰が見える。



▲原野集落の中山道から寺へんp桟道が分岐する


▲庫裏と客殿は旅館のような風情


▲墓苑の前には和風庭園が広がっている


▲流造の社殿のように見える堂舎


▲本堂前から山門を振り返る


▲山門前から集落の原野家並みを見おろす


鉄筋コンクリート製の本堂

◆室町~戦国時代の城館跡か◆

  原野や宮ノ越の歴史については、木曾義仲の挙兵拠点だったことばかりが前面に出てきますが、室町~戦国時代の藤原系木曾氏の統治拠点のひとつでした。しかし、その点については史料もほとんどないうえに、江戸時代の農耕地や集落の開拓によって史跡(歴史の痕跡)が失われたため、話題にされることもめったにありません。
  ところが、林昌寺がこの場所に再興された地理的条件と歴史的背景を知ろうとすれば、当然、江戸初期に先行する時代の歴史を探る必要があります。
  寺伝によると、林昌寺の前身となる寺院は久寿年間(1154~1155)の開創で、寺号は「洗林寺」、真言宗高野山地蔵院末の洗林寺として発足したようです(場所は不明)。真言密教の修験霊場であったと見られます。この一帯の荘園を統治した中原氏が帰依した菩提寺となったそうです。
  室町中期の1406年(応永13年)に駒ケ岳の尾根から発する沢の蛇抜け(土石流)によって壊滅し衰滅。この地帯の室町後期~戦国時代についてはまったく知りようがありませんが、その後長らく再興されることなく、江戸前期1649年(慶安2年)、大通寺2世住持、北傳祖宗によって現在地に再興されたのだとか。3年後に現在の山号寺号を法泉山林昌寺に改め、以来、臨済宗妙心寺派に属すようになりました。
  私は原野の石仏群を探索したさいに、前身の洗林寺(修験霊場)は、無佐沢川隆起に合って、石仏群の近くか、あるいはその上流部にあったのではないかと推定(想像)しました。
  さて、江戸時代前期に現在地に寺院を再建したのは、ここが尾根裾の高台で木曾氏の城館と砦の跡地で、地形が均されていて建立しやすかったからだと考えられます。

◆城館が移った跡地だったか◆

  ところで、原野八幡宮を探訪したさい、社殿の背後の樹林は木曾氏の城館の跡地だったと推定しました。すると、木曾氏の城館は林昌寺の現在地から八幡社の北側に移転したということになります。
  城館の移転の理由は、木曾氏が木曾地方南部に勢力を拡大して、戦役の前線がはるか南に遠ざかったので、もはや原野を山裾高台の城館と砦で防御する必要がなくなり、統治のために城下街に隣接した木曾川河畔の丘に城館を移したからだと考えられます。

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