妻籠小中学校跡の背後の高台に和智埜神社があります。学校跡を含む光徳寺の背後の尾根高台と山林は、古くは和智埜(和知野)と呼ばれていたそうです。明治維新で神仏分離令が出されると、光徳寺によって管理され、その寺域内の奥の高台にあった牛頭天王社は、光徳寺から分離され――地名にちなんで――社号は和智埜神社と改められました。 ◆明治期の「革命の嵐」の痕跡を残す境内◆ |
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参道石段をのぼると高台境内の入り口に明神社風の大鳥居、奥に拝殿がある |
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▲旧妻籠中学校校舎の遺構の背後(南)に回ると和智埜神社の鳥居 ▲校舎を左手に見おろしながら参道石段をのぼる ▲崖のような斜面の石段をのぼる ▲壇上の南側に並ぶ境内摂社群 ▲蓋殿のなかに14の社殿が並んでいる ▲境内の向かい側には蓋殿のなかに5つの社殿が並ぶ ▲鳥居の正面奥に端正な造りの拝殿が参拝者を迎えてくれる ▲拝殿は入母屋造りだが、大棟には千木が施された折衷方式 ▲拝殿の奥には幣拝殿風の渡殿が続き、本殿へと導く ▲横からの本殿の眺め: 切妻造の神明宮方式の造りだ ▲拝殿・本殿脇に祀られた大黒天 |
旧妻籠中学校の校舎遺構を南の端まで見て回ると、高台の下に神社の鳥居が立っています。門柱には「和智埜神社」と刻まれています。
この神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていて、スサノオノミコトを祀っていました。神仏習合の伝統と制度から瑠璃山光徳寺の寺域に属し、その管理を受けていましたが、明治政府の神仏分離令にしたがって光徳寺から切り離され、独自の神社となりました。
石段を登り切り壇上に出ると、境内両端に蓋殿に覆われた摂社の列があります。北側には5基の社殿、南側には14基の社殿が並んでいます。
まあ、八百万の神々が集合しているのは、日本各地の神社の常と言えばその通りなのですが、これは明治時代の激しい変革(文化革命)の結果と言えます。 |