◆薬医門と高麗門◆

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  小諸街あるきの記事では本陣問屋場などの町屋や寺院の門が数多く登場します。そのなかで「薬医門」「高麗門」について、解説しておきます。

  薬医門は、門の基本枠組みをなす冠木と鏡柱の枠に控柱と横木を添えて強度を強めた門の様式です。上の図の左側の2つが薬医門の基本型です。実際には、冠木門には装飾や偏額をつけるための横木や梁を付設する場合が多いようです。
  2つの図は真横から見た形状です。この図で薬医門の左右のいずれ側が外を向くかは、つねに決まっているわけではないようですが、通常は右がわが外を向き正面側となるようです。冠木と鏡柱を外に見せるわけです。
  というのは、冠木門には、防衛上の観点から強度の高い冠木門と鏡柱を外に向けたり、城や寺院などの建築施設の威厳や権威を高めるために、木彫などの装飾を施したりする場合が多いからです。また、控柱は補助的なものなので、内側に置いて目立たなくするという配慮もあります。
  小諸では成就寺の山門がそういう配置になっています。そこでは、迫力たっぷりの荘麗な木彫が冠木を飾っています。
  また、本陣問屋場の薬医門でも冠木が外を向くようになっています。

  ところで、建築物としての強度を大きくし重厚性を増すために、控柱を冠木・鏡柱の前後両側に設置する場合もあります。このような薬医門を城郭に設ける場合には、控柱を鏡柱と同じくらいに太くして防衛上の要請を満たす必要があります。

  さて、高麗門は薬医門と同じ基本構造になっています。その意味では薬医門の一形態、変種と見ることができます。
  高麗門では、冠木の上に乗せる切妻屋根を小さくして門周りの視野を広げ、両側の控柱の上に小さな切妻屋根を配して、上から見ると屋根が「コの字」をなしています。このような建築形状は、城郭や領主居館の場合には、防衛上の観点から、近隣の櫓などからの監視にさいに門周りの死角を小さくするためにつくり出されたようです。
  また寺院などの場合には、大きな屋根を重厚感をなくして、簡素な形状にするためだといわれています。
  ところが高麗門には、建築構造上の強度を高め、装飾性や重厚性を増すために、冠木・鏡柱の前後両側に控柱を設置する造りもあります。
  小諸宿の光岳寺の惣門がこれに当たります。この門は、もともとは小諸城内にあった足側門が明治期に光岳寺参道の入り口に移築されたものです。城内の足柄門だったときから、このような形状だったのでしょうか。移築のさいに控柱の付加はなかったのでしょうか。
  高麗門は周囲の櫓や石垣と結びついて桝形小口の一角を構成する場合があります。その場合には、防衛上の観点から構造を単純化するために、前後両側に控柱を設置することはあまりないように思えます。小諸城内でも今と同じ形状だったとすると、防衛上の機能は期待せずに、威厳格式や装飾性を高めるためのものだったのでしょう。
  もっとも、千曲川とその支流がつくった浸食地形を利用して築城された小諸城は、城下町よりも低い位置にあって、桝形小口や馬出など通常の防御構造がなく、かなり異なった防御施設を備えていたようです。
  とはいえ、小諸城の縄張り図を見ることができないので、今のところ単なる空想にすぎませんが。