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長野県小諸市
 
 
荒町の光岳寺と宗心寺  

▲光岳寺の楼門 本堂側からの眺め

  中沢川沿いにある養蓮寺から應興寺までの寺院群が本町通りと平行な位置関係にあったように、光岳寺から長勝寺までの寺院群は荒町から与良までの町通りと平行に配置されています。それも街並みよりも高い位置にあって、街道と街並みを見おろすように。
  小諸宿の街並み全体にわたって、北国街道と平行に寺院群が並んでいるのです。戦時には寺院に兵を配備することができるので、追分宿方面から小諸城にいたる軍用路となりうる街道を防備することができるはずです。
  城下町としての城下町と城を防御する仕組みがここまで整然と構築されたところが、ほかにあるでしょうか。

■光岳寺から宗心寺まで■

◆古い建築物が残る光岳寺◆

  本町通りの東端、荒町通りの入口にあるのが光岳寺の惣門。1665年に小諸城内の足柄門として建造されたのですが、明治初期にここに移築されました。⇒小諸城縄張り絵図
  この門は高麗門という形式で、防衛上の視野を広くとるために薬医門を簡略化した造りです。小諸城内の足柄門の時代には控柱は、防衛上の観点から内側にあったはずです。


▲楼門から惣門を振り返る

  光岳寺は1624年、松平憲良が小諸藩主となったときに、曾祖母で徳川家康の母、お大の方の菩提を弔うためにこの地に遷移建立しました。「伝通院光岳寺」という寺号は、お大の方の法名にもとづいたものです。
  そして、この寺の隣に華林院宗心寺を遷移開基しました。
  ところが25年後、跡継ぎがいなかった松平家は改易同然に移封され、より光岳寺(お大の菩提)はふたたび遷移され、閉扉されたようです。同じ名前の別の寺として運営されたのかもしれません。
  そして、1716年、9世迎誉上人によって山門――八脚楼門――が開扉創建され、藩主家の手厚い保護を受けるようになりました。

◆禅刹 宗心寺◆

  上記のとおり、宗心寺は光岳寺の建立とともに隣に開基された禅刹です。
  明治期には郡立の高等小学校の文教所となったり、子守教育所が併設されたり、歴史の変動の波を被り続けました。
  写真の真新しい本堂は、1981年に檀家の相違にもとづいて全面改装されたものです。
  この本堂の裏には、風致林を兼ねた広い霊園となっていて、ケヤキの大木を含む樹林があります。木陰の脇の道をのぼりながら散策するのは楽しいかも。


▲墓地の脇の道路は散策路
この路の右手には海応院がある。


光岳寺の惣門 高麗門造り
冠木の手前にある左右1対の控柱に小さな屋根が乗せられている。

楼門まで続く石畳の参道

どっしりと構える楼門 江戸中期の建築

光岳寺の本堂 江戸中期に建立された

石垣の上の鐘楼。小諸唱歌では、光岳寺の鐘は遠くまで響き渡ったと謡われている。

宗心寺本堂

本堂の脇の庫裏

本堂と庫裏の裏手には、霊園と樹林が広がる


▲光岳寺と宗心寺のあいだには今、住宅地と道路がある。街路樹はハハナミズキの若木。
  江戸時代には、今では住宅と道路があるこの場所は、2つの寺院の寺領の境だったはず。樹林が広がっていたかもしれません。そして、荒町の街並みに連なる寺町だったのかも。
  光岳寺から宗心寺を経て海応院まで至る荒町の「寺町」は、浅間山麓まで続く高原の斜面に位置しています。小諸宿の王子の姿を想像しながら散策してみましょう。

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