●原立寺があった場所●
▲出典:長沼歴史研究会『長沼城の研究』
この絵地図(作成年代は不明)は、長沼城が破却されたのち18世紀になってから、村人が過去の記憶をもとに描いたものと見られる。そのため記憶違いで、おそらく正覚寺と原立寺はともに外堀の外側にあったなずなのに、掘の内側に描かれている。
●霊山寺があった場所●
▲出典:同上
上掲の絵図の右半分と思われる。霊山寺は1740年代の大水害が原因でなくなったとされているので、この絵図には霊山寺が現存しているように描かれている。したがって、原図はその頃までに作成されたものと推定できる。
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◆古文書から探る◆
ここでは、長沼歴史研究会『長沼城の研究』に掲載されている絵図から2点――同じ絵図の左右と思われる――を引用します。
17世紀末までに長沼城が取り壊されて幕府天領の代官所陣屋となっていましたが、中堀の痕跡(池)だけが残っていた状況下で作図されたものでしょう。18世紀の前半頃の作成だと見られます。
さて、上の絵図では北国街道松代道の西側に正覚寺と原立寺が南北に隣り合う形で並んでいます。実際には外堀の外側にあったはずですが、この絵図では外堀の内側に置かれています。
いずれにせよ、正覚寺の南隣に原立寺があったことがわかります。
下側の絵図では、栗田町から南側の地区が描かれています。
長沼宿の南方、布野の舟渡し場で千曲川を渡って、現在の堤防に沿った位置にある街道を通って、柵と石垣桝形を抜けて宿場の上町に入ったことがわかります。
この絵図では、霊山寺は栗田町の西厳寺の北側にあったことがわかります。神仏習合の時代なので、川上社などの祠をふくめた社殿群は、霊山寺の境内の北の端に置かれていたのかもしれません。
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