長沼は、2019年10月の台風来襲のさい豪雨で千曲川が大氾濫を起こしたため水没し、深甚な被害を受けました。現在、災害からの復興過程にあります。このサイト記事は、長沼の復興を側面から勝手に応援するため、長沼の歴史と文化を世の中に発信し、多くの人びとにこの地への関心を抱いていただきたいという想いで企画制作しています。
長野市には現在、「長沼」という地籍名はありません。今あるのは「大町」「穂保」「津野」「赤沼」という地区名ですが、かつてはこれらの地区は「長沼村」にまとめられていました。そこでこのサイトでは、歴史と伝統がある「長沼」という地名でこれらの地区全体をひとまとめにして表記することにします。【⇒長沼全体の絵地図を見る】
▲長沼地区大町辺りの河川敷での千曲川の流れ: 穏やかな冬の陽射しを受けて輝く川面。背景は菅平高原・根子岳。
▲河川敷から北西方向には、左から飯縄山(標高1917m)、黒姫山(標高2053m)、妙高山(標高2454m)の山頂が見える
▲長沼の南隣、村山の河川敷と鉄橋(長野電鉄村山橋梁)
▲上町の家並み: 背後の樹林は長沼神社の鎮守の杜
▲昭和期の養蚕に合わせた造りの重厚で広壮な古民家が目立つ
▲上町通りの北にある栗田町の家並みと善道寺
▲長沼城跡: ここは二ノ丸南端の虎口と天王宮があった
▲長沼城跡の周りのリンゴ園
▲田園に囲まれた六地蔵町の家並み――水害の傷跡が残る耕作地
▲内町の家並み: 背景には残雪の飯綱山山頂がのぞく
▲雪景色になった玅笑寺と津野の家並み
▲リンゴ園に取り巻かれた赤沼の集落: 背景には飯綱山と黒姫山
■長沼の歴史■
長沼には平安時代の末から鎌倉時代のはじめ頃に太田庄という荘園があって、藤原家宗家の所領となっていたそうです。その頃には農耕地と村落が開かれていたということです。
伝説では、1192年(建久年間)に長沼太郎政光という武士が鎌倉幕府から太田庄の地頭領主として補任され、この地を統治していたということです。
長沼一族は、以前からこの地を支配する豪族だった――それで長沼姓を名乗った――ため、鎌倉幕府も当初には地頭職を任せたのかもしれません。
やがて1221年(承久年間)になると幕府は、島津忠久を長沼の地頭領主として派遣しました。島津氏は鹿児島の島津家の始祖ともいわれている有能・有力な武将で、それまでは筑摩郡塩田近辺にいたのです。島津氏の赴任は、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との間の権力闘争――承久の乱――に絡んだ動きかもしれません。
後鳥羽上皇は、地頭領主層のあいだの利害対立を利用して各地の武士たちに幕府への反乱蜂起を促したので、この長沼を含む北信濃でも地頭領主・武士たちのあいだに利害の反目があったのかもしれません。
島津家の赴任にさいしては、長野善光寺の地頭だった長沼家と島津家との確執も伝えられています。
善光寺からその北東に位置する長沼までのあいだには、芋井郷、若槻郷など、いくつも郷村というか所領(小領国)があってそれぞれに豪族領主が地頭となっていました。彼らはしょっちゅう支配地・勢力圏の争奪や境界争いを繰り広げていたようです。鎌倉幕府は、そういう各地方で分立割拠する領主層のあいだの闘争を効果的に統制し切れなかったようです。
室町時代には幕府の統制はさらに緩んでいったようです。北信濃では1440年頃から地頭領主たちのあいだの勢力争いが活発化しました――すでに戦国時代が始まっていたようです。
室町幕府は、かつての律令制時代の国(令制国)を管区単位とする守護(守護大名)を任命しましたが、ほとんど名目だけで、地方領主層の権力闘争は収まりませんでした。
ヨーロッパの軍事史を学んだ私から見ると、平安末期から戦国末期までは、各地で分立割拠する領主たちの勢力争いが断続する時代だったと思われます。彼らは支配地や勢力圏の拡大をめざしながら、互いに変動しやすい同盟を結んで幕府や朝廷に対する影響力を競い合っていたかに見えます。
■城砦と街道の街■
さて、地頭領主としての島津氏の長沼の統治は340年近く続きました。ところが、16世紀半ばには甲斐の武田家が信濃侵略・攻略を展開。島津氏は長沼から撤退して豊野の鳥居川北岸の尾根上の大倉城に移って、上杉家に臣従することになりました。
武田家は長沼に城砦を築き、上杉との軍事的対抗に備えました。北信濃では千曲川畔の松代海津城と長沼城が武田家の北信での軍略の拠点となりました。
上杉家と武田家との勢力争いのもとで、両家が開削した軍道をもとにして、小諸や上田、松本、木曾方面と連絡する街道の原型が形成されました。長沼からは、千曲川を渡って松代、屋代、坂城にいたる経路が発達し、上杉家は北国街道としては善光寺道よりも牟礼から長沼を経て松代にいたる「長沼道=松代道」での輸送や交易を優越させました。
武田家が織田家によって滅ぼされ、そしてまもなく織田家も没落し、豊臣政権となります。その間、織田家も豊臣家も長沼に腹心の有力家臣を派遣して城主に据えました。
徳川家が覇権を握ると、街道制度が整備され、北国街道も整備され、松代から長沼を経由して牟礼(善光寺道)に連絡する松代道=長沼道は、千曲川沿いに信濃と北越を結ぶ物流の幹線になりました。【⇒信濃の諸街道と北国街道】
幕藩体制のもとで直接には松代藩、長沼藩の指揮下で北国街道松代道が整備され、長沼城の直下に長沼宿駅が建設されました。
こうして、江戸時代のはじめに長沼は城下街であると同時に宿場街となって、統治の中心としての性格とともに交易と商工業の拠点、物流の結節点としての機能を備えることになりました。長沼宿の対岸には松代道福島宿があって、ここは須坂を経て飯山、越後に向かう谷街道、米子村を経て菅平を越えて上州に連絡する大笹街道と結びつく交通の要衝でした。
■千曲川水系古地理と長沼■
近年、千曲川の堤防決壊と大氾濫を経験した長沼ですが、治水技術がなかった古代からこの地帯で集落と農耕地が開かれていたようです。なぜでしょうか。;理由は単純です。江戸時代前期までは、千曲川=犀川水系は現在と大きく異なっていて、長沼は比較的に安全な河岸丘陵地だったからです。
そこで、千曲川水系の古地理について、少し説明しておきます。【⇒千曲川水系の古地理】
江戸時代前期までの千曲川=犀川水系は、現在とまったく異なっていました。長沼に関しては、裾花川や浅川の主流は東に向かって流れ下っていたので、その流下圧力や浸食・運搬・堆積作用で、千曲川の本流は今よりも700~1400メートルも東に寄っていたと見られます。
してみれば、河岸の堆積丘陵の段丘上にある長沼は、現在よりもはるかに氾濫洪水の危険が小さかったはずです。平安時代中期には、周囲の山地に居住地を構えながら、長沼で水田開拓を始めていたのではないでしょうか。毎年、都に貢納物を送る太田庄という荘園・公領が形成されたのは、安定して農作物の収穫が見込まれたからです。
ところが、17世紀半ば以降、農地開拓や集落建設のために松代藩と長沼藩が千曲川と犀川、さらに裾花川や浅川の流路を大がかりな治水土木工事を推し進めた結果、千曲川の流路が大きく西に移動することになって、18世紀半ば以降になると、長沼は頻繁に水害に見舞われることになったと見られます。【⇒千曲川水系の変遷】
長沼には1000年ほど前には、藤原宗家の荘園「太田庄」があったそうです。「大田郷」が転じて「太田郷」になったようです。守田神社(古くは守太田神社)をめぐる言い伝えでは、あらましこういう物語です。
太古には立ケ花以南から長沼、川中島にかけて巨大な湖があったが、やがて北端の山並みが切り崩されて、流水は越後まで達して海に注いだ。水が退いた肥沃な土地には民衆が開拓しようと集まって集落と耕作地を開いた。そのときに、開拓を指導したのが豪族(この地方の王侯)の大田氏で、彼らは祭祀をつかさどった。
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