御馬寄は、千曲川西岸に重畳する河岸段丘の急斜面にはりついたような家並みが続く小さな集落です。中山道の両脇に続く街並みは250メートルもありません。家並みを縫うように通じる小径はほとんどが急坂です。
  幕末から昭和期にかけて、水田稲作と並んで養蚕が盛んになったことは、古い家の造りに現れています。小さいけれども豊かな農村の佇まいが残されているのです。


◆河岸の急斜面の小さな集落◆



集落の南西の丘から北東方向を眺める。高低差の大きな家並みの彼方には雲に隠れた浅間高原が広がる。



▲段丘面の縁を等高線と平行に通る小径


▲階段状の段丘の段差は今は土盛りで均されている
 昭和中期までは、連なる河岸段丘に沿って階段状の急勾配斜面の道だった。


▲集落の道は勾配のきつい斜面を上り下りする


▲村落内の家々の行き来は山登りのようになる


▲斜面を往く小径と家並みが伝統的で美しい景観をつくる


▲総二階(厨子二階)造りの古民家は、養蚕に適合させた結構になっている


▲家並みと旧街道との間に段々畑が割り込んでいる。街道脇の家並みが失われたのだろうか。それとも、もともと畑作地だったのか。

◆家並みが語る村の産業史◆


家の土台の石垣は旧街道の起伏が均されたことを語る

手前の家屋も奥の家屋も養蚕向けの造り

  千曲川が形成した起伏の大きな河岸段丘地形は、御馬寄村の背後に広大な高台丘陵をもたらし、河畔に急勾配の斜面をもたらしました。
  このような地形環境の村々では、背後の丘陵に水田を開拓開墾し、丘陵と河畔の急斜面に桑を栽培し、蚕の餌としました。降雪が少ない地方では、田植え前の春と田植え後の初夏から初秋にかけて2回、養蚕をおこなう場合が多かったようです。
  稲作作業の合い間におこなう養蚕は、農家に大きな副収入をもたらしました。やがて、高度経済成長が始まると、家族が商工業に従事する兼業農家が増えて、これまた収入の途を広げました。


広壮な総二階の家屋は養蚕に適していた


▲総二階造りの大棟に載せた通風孔の小屋根。
養蚕向けの構造を保って修築したようだ。

◆急勾配で起伏に富んだ村の道◆

  明治時代の前半までは、中山道は河岸段丘の地形に応じた路盤・路面の険阻な道でした。ところが今は、拡幅されて嵩上げして起伏が均された平滑な舗装道路になっています。
  街道脇の家屋の地盤が道路よりも数十センチも低かったり高かったりするのは、街道を嵩上げしたり、路盤を削ったりして、起伏と勾配を均したからです。高くなった敷地は縁に石垣を施して地盤を支えるようになったのです。
  ところが、家々が密集する集落内を通る小径は、舗装されたものの地形による傾斜や起伏はほとんどそのままです。村落の家並みを探索しながら小径を歩くと、そういう昔ながらの生活を物語る佇まいの名残りを見つけることができます。


家並みが途切れると急斜面を斜めに往く農道となる


▲河畔を南に向かう小径の先に古民家がある


▲家屋全体の造りはこうなっている

◆旅館遺構の古民家◆

  集落の南側で一番千曲川よりの小径を歩いているときに、かつては旅館を営んでいた古民家を見つけました。二階の破風軒下に古びた看板が残されていますが、もう営業していないようです。
  棟入の二階建てですが、二階の棟側の破風は入母屋で、一階の玄関は唐破風となっていて、じつに瀟洒な結構となっています。じつに貴重な、文化財級の建築様式です。
  大正時代から昭和初期にかけての建築様式です。住人が住んでいてきちんと手をかけて補修しているようです。
  古民家として保全して旅館として利用したら人気が出そうです。

前の記事に戻る || 次の記事に進む |