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長野県佐久市御馬寄

  佐久盆地を往く旧中山道の最大の難所は千曲川でした。この難所をできるだけ安全に超えるために、東岸に塩名田しおなだ宿が建設され、その対岸にある御馬寄みまよせ村に塩名田宿の補佐を担わせました。
  というしだいで御馬寄村は、千曲川を渡渉するための西岸の準備・待機のための加宿だったのです。
  写真:御馬寄集落の北西側の河岸段丘上から御馬寄の集落を一望する。

 
千曲川峡谷の底に位置する


▲昭和前期までの御馬寄の繁栄を物語る旧街道沿いの商家の広壮な屋敷

  御馬寄みまよせという集落の名前は、この集落の南にある駒寄という地名とともに、古代に由来を求めることができるそうです。
  この地の北側には御牧原の高原台地があって、地名の通り、そこは古代から大和王権に優駿を貢納する広大な官牧が営まれていました。
  古い史料には「望月の牧の牧場をここに検して貢馬を御馬寄に繋ぎ、雑馬を駒寄に集むる、村名の出所なり」とあるとか。都に献上する馬を選抜するために馬を集めて品評会をもよおし、そこで選り抜かれた秀逸な馬を御馬寄に集め、選にもれた馬を駒寄に集めたたようです。

  旧御馬寄村を往く中山道を見おろすように、ところどころ段丘の上に大日如来の石仏や石塔が立っています。大日如来といえば、山岳信仰と結びついた密教修験の世界で最高の仏です。そういう石仏群は、大和王権が直轄する官牧があった御牧原の周囲には、古代から続く密教修験の拠点があった歴史を物語る史跡です。
  集落のなかにもまほろばのような場所に大日如来(石仏)が立っています。

■加宿としての御馬寄集落■

■峡谷と丘陵を横切る街道■


小堂跡に残る大日如来の石仏

  八幡宿の東側は中沢川が削った小さな谷間となっていて、旧中山道はこの谷に降りてからのぼり返しながら東に進みます。のぼりの舗装道路をおよそ700メートルほど進むと丘陵の頂点に達します。そこからふたたび1キロメートル余り続くゆるやかな下り坂になります。そして西岸の幅300メートルほどは急勾配で千曲川千曲川に落ち込んでいきます。がつくった幅1キロメートルに達する巨大な峡谷――標高差は35メートル以上――に下っていくのです。大規模な河岸段丘が重なっている峡谷で、両岸のところどころは崖になっています。
  それでも、御馬寄から塩名田を結ぶ中山道は、傾斜が最も緩やかになるような道筋を通るようになっています。御馬寄と塩名田は千曲川の峡谷の底にある集落で、家並みの一番低いところでは、屋敷地と河床とは数メートルくらいしか高低差がありません。
  室町後期頃には佐久平を南北に横断する交易路や軍道――中山道の前身――がつくられていたようですが、高低差の大きな河岸段丘を上り下りして暴れ川の千曲川を渡渉することには大きな困難がともなっていました。そのために、両河岸には川越えの準備のために自然発生的に集落が形成されていたようです。


左折してから振り返ってみる


旧中山道は幅一間もないような小径

  1602年に徳川幕府の指導下で中仙道が整備され始めますが、そのさいに東岸の塩名田を宿駅と定めて宿場街づくりが進められ、対岸の御馬寄村は塩名田を補佐する集落というあつかいになったそうです。大雨で千曲川が増水すれば川止めとなり、旅人たちは両岸の集落に何日も停泊する羽目になりました。
  というわけで、河川という要害を挟んだ両側に交易や交通・物流の拠点ができあがることになりました。


養蚕が盛んだった昭和中期の総二階造りの民家


大通りは嵩上げしてあるので、古い屋敷地を見おろす

■加宿の役割■

  中山道を利用する物流量が増加すると、塩名田だけでは貨客の継ぎ立て業務(駅逓輸送)を担いきらなくなったため、御馬寄に加宿の役割が与えられました。
  加宿とは、集落自らの費用負担で――つまり年貢として――塩名田に荷駄運搬を担う人馬を用立てて補佐する役目を担うことです。その負担分は、藩や代官所に納める年貢から差し引かれました。
  ところが、八幡宿や塩名田宿が本陣・脇本陣、問屋などの業務に村の経済力を費やしているうちに、そういう街道仕事の負担が軽い御馬寄には穀問屋や太物店、小間物店などの商家が出現成長し、しかも六斎市(定期市)も開催されるようになりました。
  そのため、御馬寄村が八幡宿や塩名田宿の経済的地位や財政能力を掘り崩しかねないほどに繁栄することになり、両宿場街から穀問屋業務の差し止めや制限をもとめる訴えが藩や幕府代官所に出されたこともあるそうです。
  たしかに千曲川河畔の街道沿いに並ぶ商家の町家古民家――昭和前期に修築されたもの――を見ると、広壮で重厚な造りで、塩名田宿や八幡宿に匹敵する財力をもっていたであろうと推測できます。
  とはいえ、家並みの長さとか集落の規模は両宿場街よりも格段に小さかったので、集落全体の経済規模はそれほど大きくならなかったものと見られます。規模が小さい割には裕福な村だったとは言えるようです。


昭和期に架橋のために街道の上に土盛りして嵩上げした

昭和期の道路・橋梁建設にさいして街道遺構の上に土盛りして路盤を嵩上げしたため、道沿いの屋敷の敷地面が道路よりも低くなってしまった。旧中山道の路面は屋敷地と同じ高さにあった。


河岸の急傾斜の手前で旧街道は路側帯から左(北)に分岐する▲


左の段丘崖の上に石仏と石塔がある。かつて小堂があったそうだ。▲


旧街道は、歩道橋にいたる手前で左折する▲

往時のままの道幅で残る旧街道の遺構▲

段丘崖上の水田畦道から旧中山道(右手の舗装道路)を見おろす▲

段丘崖上斜面の壇上に並ぶ石仏・石塔群▲


旧中山道の道筋を辿ると、細道は大通りに合流する▲


旧街道の遺構沿いには富裕な商家の町家が並ぶ▲

坂道を下りきると、千曲川を越える橋となる▲


右手の町家の土台が往時の中山道の路盤の位置だった▲


御馬寄の千曲川河畔(西岸)の家並み▲

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