■峡谷と丘陵を横切る街道■
小堂跡に残る大日如来の石仏
八幡宿の東側は中沢川が削った小さな谷間となっていて、旧中山道はこの谷に降りてからのぼり返しながら東に進みます。のぼりの舗装道路をおよそ700メートルほど進むと丘陵の頂点に達します。そこからふたたび1キロメートル余り続くゆるやかな下り坂になります。そして西岸の幅300メートルほどは急勾配で千曲川千曲川に落ち込んでいきます。がつくった幅1キロメートルに達する巨大な峡谷――標高差は35メートル以上――に下っていくのです。大規模な河岸段丘が重なっている峡谷で、両岸のところどころは崖になっています。
それでも、御馬寄から塩名田を結ぶ中山道は、傾斜が最も緩やかになるような道筋を通るようになっています。御馬寄と塩名田は千曲川の峡谷の底にある集落で、家並みの一番低いところでは、屋敷地と河床とは数メートルくらいしか高低差がありません。
室町後期頃には佐久平を南北に横断する交易路や軍道――中山道の前身――がつくられていたようですが、高低差の大きな河岸段丘を上り下りして暴れ川の千曲川を渡渉することには大きな困難がともなっていました。そのために、両河岸には川越えの準備のために自然発生的に集落が形成されていたようです。
左折してから振り返ってみる
旧中山道は幅一間もないような小径
1602年に徳川幕府の指導下で中仙道が整備され始めますが、そのさいに東岸の塩名田を宿駅と定めて宿場街づくりが進められ、対岸の御馬寄村は塩名田を補佐する集落というあつかいになったそうです。大雨で千曲川が増水すれば川止めとなり、旅人たちは両岸の集落に何日も停泊する羽目になりました。
というわけで、河川という要害を挟んだ両側に交易や交通・物流の拠点ができあがることになりました。
養蚕が盛んだった昭和中期の総二階造りの民家
大通りは嵩上げしてあるので、古い屋敷地を見おろす
■加宿の役割■
中山道を利用する物流量が増加すると、塩名田だけでは貨客の継ぎ立て業務(駅逓輸送)を担いきらなくなったため、御馬寄に加宿の役割が与えられました。
加宿とは、集落自らの費用負担で――つまり年貢として――塩名田に荷駄運搬を担う人馬を用立てて補佐する役目を担うことです。その負担分は、藩や代官所に納める年貢から差し引かれました。
ところが、八幡宿や塩名田宿が本陣・脇本陣、問屋などの業務に村の経済力を費やしているうちに、そういう街道仕事の負担が軽い御馬寄には穀問屋や太物店、小間物店などの商家が出現成長し、しかも六斎市(定期市)も開催されるようになりました。
そのため、御馬寄村が八幡宿や塩名田宿の経済的地位や財政能力を掘り崩しかねないほどに繁栄することになり、両宿場街から穀問屋業務の差し止めや制限をもとめる訴えが藩や幕府代官所に出されたこともあるそうです。
たしかに千曲川河畔の街道沿いに並ぶ商家の町家古民家――昭和前期に修築されたもの――を見ると、広壮で重厚な造りで、塩名田宿や八幡宿に匹敵する財力をもっていたであろうと推測できます。
とはいえ、家並みの長さとか集落の規模は両宿場街よりも格段に小さかったので、集落全体の経済規模はそれほど大きくならなかったものと見られます。規模が小さい割には裕福な村だったとは言えるようです。
昭和期に架橋のために街道の上に土盛りして嵩上げした
昭和期の道路・橋梁建設にさいして街道遺構の上に土盛りして路盤を嵩上げしたため、道沿いの屋敷の敷地面が道路よりも低くなってしまった。旧中山道の路面は屋敷地と同じ高さにあった。
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