望月宿の南、鹿曲川と八丁地川との合流部の近くの樹林のなかに大日如来の石仏があります。万治まんじの石仏と呼ばれています。石造の大日如来です。江戸時代中期、万治2年(1659年)に建立されたので、その建立年号(元号)にちなんでそう呼ばれているということです。
  中山道沿いの下諏訪町の諏訪大社下社春宮の近くにも、漢字で同じ表記の「万治ばんぢの石仏」がありますが、こちらは「あらゆる病を治癒する霊験がある」という意味で、読み方が少し違います。


◆不思議な場所に祀られた大日如来◆



尾崎橋の近くにある丘樹林の北端、コナラと松の2本の巨木の根元に挟まれて立つ大日如来

▲反対側は夥しい墓石が並ぶ墓苑で、背後に尾根末端の急斜面が迫る
江戸時代後期の自然石の墓標・石塔と明治~昭和期の四角柱の墓標が入り混じっている。


▲胡桃沢橋を西に渡ると尾根末端の墓地群にいたる


▲墓苑への登り口に立つ大乗妙典供養塔と念仏奉納塔


▲墓苑の隅に並ぶ石祠たち。
これらは江戸後期の道祖神または庚申塔である可能性が高い。


▲江戸後期以降の舟形あるいは頂部が三角形の墓石もある


▲胡桃沢橋の下を流れる鹿曲川。橋は墓苑の東にある。


▲尾崎橋の下を流れる八丁地川の河床は段差が連続している

鹿曲川と八丁地川の流れを隔てているのは天神尾根で、その先端(北端)麓に石仏と墓地群が集まっている、この場所がある


▲真言密教の印を結ぶ大日如来は素朴な姿だ


▲石造如来は深い悟りを開いているけれども、孤独そうだ
 静謐だが、印を結んだ姿に強い意思(孤高)が感じられる

  石仏が祀られている樹林はじつに不思議なところです。もともとは、天神城跡がある尾根の北端の樹林なのですが、国道142号の建設(切通し)で城跡がある尾根筋から断ち切られてしまって、鹿曲川と八丁地川との合流点側に取り残された尾根の「しっぽの先」なのです。この樹林には、多数の墓地や石仏・石塔群が散在していて、往古には寺院があったのかもしれません。ただし何の史料も残されていません。
  茂田井から望月、協和にかけての一帯には、尾根の末端や裾に墓地を並べている奇妙な場所がいくつもあります。一塊になった墓石群が連なる場所があちらこちらにあるのです。そういう尾根は、戦国時代には城砦群や連絡路があったと見られる場所です。


石仏から道を渡ると八丁地川に架された尾崎橋

県道151号が石仏と尾崎橋の手前で曲がる

  茂田井から望月にかけての一帯には、石仏群や墓石群があちこちにあります。信州では多くの地方で、江戸時代中期までは武士や有力な町村役人を除くと、一般庶民が墓碑を建てる風習はめったになかったようです。五輪塔や宝塔、宝筐塔などが武士の墓でした。江戸後期から農民などの庶民を埋葬した土饅頭の上に自然石を置くようになり、やがて墓標と石仏とは同じ形状になって、その風習は明治時代まで続きます。庶民には戒名・法名がつけられることはなかったようです。
  墓石も石仏も舟形で裏側が丸く、墓標には経典の短い句節や俗名が刻まれ、石仏には馬頭観音などの仏名が刻まれたり、浮き彫り像が施されたりするというほどの違いがあったそうです。やがて火葬が普及し遺骨を墓地に収納するようになると、富裕な有力者が家門の墓として四角柱の墓石を置き、脇の墓誌や墓石の裏に戒名・法名が刻まれるようになり、これが、昭和期になって庶民のあいだに普及していきます。
  この場所は尾崎橋と胡桃沢橋に挟まれた尾根末端に位置し、ここに墓石や石仏・石塔が並ぶようになったのは、江戸時代中期頃からではないかと見られます。
  してみると、万治2年と伝えられる石造大日如来の建立ののち、昭和期まで、この丘の麓に神聖な斎の場として墓石や石仏・石塔が置かれるようになったのではないかと推測できます。
  この石仏は、両手の印の結び方から見ると、金剛界大日如来が智拳印を結んでいる、あるいは胎蔵界大日如来が法界定印を結んでいる形なので、真言密教の最高位の本尊、大日如来だということになります。
  だとすると、この近辺に真言密教の修験道場となるべき有力寺院があったことになります。望月橋近くに大応院跡があるので、大応院の僧たちの修行の場がこの尾根にあったのかもしれません。近隣には福王寺もあるので、そちらの僧たちの修験拠点だったのかもしれません。
  何かそんな神聖な雰囲気の尾根の麓なので、やがて人びとが死者の霊を弔う地として、墓石や石仏、石塔を置くようになったのではないか、そんな印象を受けます。


石仏の頭上を鬱蒼とした大木の枝葉が覆う

はるかに西方浄土を眺めている

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