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長野県佐久市協和
 
  真言宗智山派の寺院、雫田山竹仙院福王寺がある丘陵は協和小平という地区にあります。他方、寺院創建に関わる伝説に出てくる協和比田井は、望月の牧があった御牧原台地と鹿曲川峡谷を挟んで南西側に位置する台地高原です。ともに古代から豪族が統治する集落群があったところですが、距離が離れています。そこには謎があるようです。
  写真は、茂田井との境界に近い丘陵斜面に並ぶ福王寺堂宇群。

 
丘の上の古刹


▲福王寺の阿弥陀堂と観音堂を背後の丘尾根から眺めた様子。墓苑はかつて深い樹林だったようだ。

  福王寺は、寺伝によると807年(大同年間)に創建されたそうです。しかし、江戸時代初期(寛永年間)、1624年の山火事で一部の仏像のほかは堂宇とともにほとんどの文物が消失してしまったため、寺の詳しい来歴はわかりません。征夷大将軍、坂の上の田村麿にちなむ寺院創建の伝説では、蝦夷遠征の途次、田村麿がかかわった豪族の夫妻の墓の近くに寺を建立した場所が比田井山の中腹だったのだとか。


▲同じく丘の尾根から本堂や庫裏を眺める

  ところが、旧協和村で比田井と呼ばれる地区は、現在地から3キロメートルも東南東にあります【⇒絵地図参照】。とすると、創建の地に近い比田井山は、現在地の背後に迫る丘ではないということになります。してみると、福王寺はその辺りから現在地に移転してきたということになります。もちろん、比田井という地名の場所そのものが移ったということも考えられます。
  私見では、場所はわかりませんが、8世紀末から9世紀はじめにかけて真言密教の修験霊場としてどこか現在地とは別の山裾に創建されたのではないでしょうか。江戸初期の山火事だけででなく、明治維新での廃仏毀釈政策で、仏教寺院やその文物の多くが破壊されたので、なおのこと寺の来歴は謎となってしまいました。江戸時代には、望月宿の長坂にあった大応院が福王寺の別当寺であったことからすると、古代に密教寺院として発足したように思えます。
  その何よりの証拠は、本道大棟に描かれた寺紋が真言独鈷であることです。独鈷杵こそ真言密教修験の象徴にほかなりません。

■寺の来歴を想像する■


三十三番札所の案内石柱から参道が始まる

仁王門から高台壇上の境内が見える

  征夷大将軍の田村麿がかかわったとする寺の創建の物語は、古代、木曾谷か伊那谷を抜ける東山道をつうじてこの地に大和王権の権威が到達したことを告げています。つまりは、王権の権威を支え伝達する装置として真言密教の寺院、福王寺が建立されたということです。
  何しろ、江戸初期の山火事で福王寺の文物の大半が消失してしまい、創建伝説をそのまま記述した寺伝だけが残されているということから、この寺院の由緒来歴の実相は謎に包まれています。
  そこでここでは、まず福王寺の立地や建物を観察したのちに、寺伝物語にある断片的なできごとから、いろいろと想像をめぐらせてみようと思います。


中央の寺紋が真言独鈷(独鈷が四方に向く形)

  寺がある丘陵斜面の地形は、中世の豪族領主の居館あるは城館を構えるのに最適な形状をなしています。そして、段丘をのぼりながら堂宇を配置してある様子は、まさに軽防備の段郭を連ねているように見えます。地形と堂宇の配置は、小布施町の岩松院や佐久市田口の蕃松院などが領主城館の跡地または隣接地に建立された経緯を彷彿させます。
  丘陵の懐(斜面)に抱かれた寺域は、古代~中世の豪族居館の跡地のように見えます。
  鐘楼、本堂、庫裏・客殿などの正面を取り囲む塀は、あたかも城壁のようです。とはいえ、城館と異なるのは、中心部をなす本堂はいわば信仰への入り口にすぎず、その奥に本尊や秘仏を安置した堂宇群が置かれているということです。
  つまり、境内の奥に進んでいくにつれて、信仰の奥義を象徴する秘仏(仏像)にお詣りするという順路になっていると見られます。


高台の境内(塀脇)から山門の南の小平集落を見渡す

  本堂の左背後(北西側)には護摩堂=不動明王堂が置かれています。ここが、境内の中心・要の位置で、不動明王が寺域全体を鎮護しているというイメイジでしょうか。不動明王は、古代インドではシヴァ神だった仏法の守護神で、日本には空海が持ち帰り、真言の大本尊である大日如来の化身だともいわれています。真言の祈祷としての護摩は、炎を添えて不動明王に祈る作法なのだとか。護摩堂の本尊は不動明王なのです。
  その北側奥には小さな観音堂があります。聖観音像を祀る小堂です。もともとは鎌倉時代につくられた仏像でしたが、近年に焼失したのち、最近復元されて、このお堂に安置されました。この寺院では、三十三観音のひとつ、白衣びゃくえ観音が釈迦如来を象徴するものとされてきたので、聖観音はそういう文脈で本尊のひとつとなったのかもしれません、
  そして、境内の西端には阿弥陀如来堂があって、東向きに構えています。まさに西方浄土から人びとに救済の光を放射するかのごとき位置取りです。聖観音菩薩(堂)は阿弥陀如来の左手前に脇侍して、阿弥陀様の前にやって来た人びとに直接手を差し伸べている、これが堂宇の配置の意図だと感じます。
  じつに考え抜かれた堂宇の並びで、これほど簡潔に寺院の思想を表現した境内はじつに稀です。というよりも、どの寺もそういう堂宇の配置構想をもつのでしょうが、福王寺ほど端的に示している境内はめったにないと思います。みごとです。


阿弥陀堂前から護摩堂(不動明王堂)を眺める

護摩堂脇に並ぶ六地蔵

  私は境内の背後(北側)に迫る丘を歩き回って観察してみました。本堂や庫裏・客殿の背後に迫る丘からの眺めは、領主館から丘陵尾根下の小平の集落と田園を統治すべく睥睨するという様態でした。ここには、はじめから寺があったというよりも、まず豪族の領主館があって、その跡地に寺が移されて立地したのではないかという印象です。⇒次頁参照
  背後の丘には、あちらこちらと家門ごとに一塊の墓地が散在しています。中世まで曲輪壇(家臣団屋敷)があったところに、江戸時代になってから家系ごとに墓標を建てていったのではないでしょうか。寺域の西端にも、家門ごとの墓地がさまざまに異なった向きで散在しています。これは、氏神を祀る以前の風習の名残りかもしれません。
  かつてあった畑作地や山林の管理のためか、数十年前まで頻繁に使われていたと見られる小径の跡が縦横に残っています。道跡の傍らには馬頭観音(石仏)が立っていますが、これは人びとが頻繁に行き来した証拠だといえます。


観音堂前から阿弥陀堂を眺める

阿弥陀堂の内陣: 阿弥陀如来に毘沙門天が脇侍する


参道入り口の石塔には「仏法東漸寓窟」と刻んであるようだ▲
「仏法東漸」とは、仏教の教えや戒めがインドから極東の日本に伝来したという意味で、「寓窟」とは、その仏法典を研鑽する者は窟屋(いわや)に暮らすという意味だと解釈できる。言い換えると、仏法の担い手は、深い山岳で密教修行する修験葬が担うということらしい(ただし、「寓」は私の判読による)。

仁王門の金剛力士像:右が阿形、左が吽形▲

小ぢんまりとした仁王門だが、どっしりと存在感がある▲

堅固な土塀に支えられた、領主の城館のような構えの境内▲

山火事で焼失後、1709年(宝永期)までに再建立された本堂▲

本堂は威圧感をかもすほど大きくないが重厚な結構▲

石垣ではなく木製の台座に支えられた鐘楼はやや小ぶり▲

護摩堂・不動明王堂▲

手前が庫裏・客殿で奥が本堂、その南に鐘楼、段丘下に仁王門がある▲

▲本堂の裏、北西側に護摩堂=不動明王堂があって、要の位置

湧き水を溜める小さな池。大池に水が流れていく。▲

山腹斜面を背負う聖観音堂(三十二番霊場札所としての本尊を祀る)▲

観音堂の内陣: 金箔を施した観音像が立つ▲

宝物庫前から望む阿弥陀堂(本尊は宝物庫に安置)▲

▲阿弥陀堂と本堂とのあいだに横たわる池: ここは谷沢が形成した小さな扇状地で、伏流水が段丘崖から湧き出ているのだ。

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