三十三番札所の案内石柱から参道が始まる
仁王門から高台壇上の境内が見える
征夷大将軍の田村麿がかかわったとする寺の創建の物語は、古代、木曾谷か伊那谷を抜ける東山道をつうじてこの地に大和王権の権威が到達したことを告げています。つまりは、王権の権威を支え伝達する装置として真言密教の寺院、福王寺が建立されたということです。
何しろ、江戸初期の山火事で福王寺の文物の大半が消失してしまい、創建伝説をそのまま記述した寺伝だけが残されているということから、この寺院の由緒来歴の実相は謎に包まれています。
そこでここでは、まず福王寺の立地や建物を観察したのちに、寺伝物語にある断片的なできごとから、いろいろと想像をめぐらせてみようと思います。
中央の寺紋が真言独鈷(独鈷が四方に向く形)
寺がある丘陵斜面の地形は、中世の豪族領主の居館あるは城館を構えるのに最適な形状をなしています。そして、段丘をのぼりながら堂宇を配置してある様子は、まさに軽防備の段郭を連ねているように見えます。地形と堂宇の配置は、小布施町の岩松院や佐久市田口の蕃松院などが領主城館の跡地または隣接地に建立された経緯を彷彿させます。
丘陵の懐(斜面)に抱かれた寺域は、古代~中世の豪族居館の跡地のように見えます。
鐘楼、本堂、庫裏・客殿などの正面を取り囲む塀は、あたかも城壁のようです。とはいえ、城館と異なるのは、中心部をなす本堂はいわば信仰への入り口にすぎず、その奥に本尊や秘仏を安置した堂宇群が置かれているということです。
つまり、境内の奥に進んでいくにつれて、信仰の奥義を象徴する秘仏(仏像)にお詣りするという順路になっていると見られます。
高台の境内(塀脇)から山門の南の小平集落を見渡す
本堂の左背後(北西側)には護摩堂=不動明王堂が置かれています。ここが、境内の中心・要の位置で、不動明王が寺域全体を鎮護しているというイメイジでしょうか。不動明王は、古代インドではシヴァ神だった仏法の守護神で、日本には空海が持ち帰り、真言の大本尊である大日如来の化身だともいわれています。真言の祈祷としての護摩は、炎を添えて不動明王に祈る作法なのだとか。護摩堂の本尊は不動明王なのです。
その北側奥には小さな観音堂があります。聖観音像を祀る小堂です。もともとは鎌倉時代につくられた仏像でしたが、近年に焼失したのち、最近復元されて、このお堂に安置されました。この寺院では、三十三観音のひとつ、白衣観音が釈迦如来を象徴するものとされてきたので、聖観音はそういう文脈で本尊のひとつとなったのかもしれません、
そして、境内の西端には阿弥陀如来堂があって、東向きに構えています。まさに西方浄土から人びとに救済の光を放射するかのごとき位置取りです。聖観音菩薩(堂)は阿弥陀如来の左手前に脇侍して、阿弥陀様の前にやって来た人びとに直接手を差し伸べている、これが堂宇の配置の意図だと感じます。
じつに考え抜かれた堂宇の並びで、これほど簡潔に寺院の思想を表現した境内はじつに稀です。というよりも、どの寺もそういう堂宇の配置構想をもつのでしょうが、福王寺ほど端的に示している境内はめったにないと思います。みごとです。
阿弥陀堂前から護摩堂(不動明王堂)を眺める
護摩堂脇に並ぶ六地蔵
私は境内の背後(北側)に迫る丘を歩き回って観察してみました。本堂や庫裏・客殿の背後に迫る丘からの眺めは、領主館から丘陵尾根下の小平の集落と田園を統治すべく睥睨するという様態でした。ここには、はじめから寺があったというよりも、まず豪族の領主館があって、その跡地に寺が移されて立地したのではないかという印象です。⇒次頁参照
背後の丘には、あちらこちらと家門ごとに一塊の墓地が散在しています。中世まで曲輪壇(家臣団屋敷)があったところに、江戸時代になってから家系ごとに墓標を建てていったのではないでしょうか。寺域の西端にも、家門ごとの墓地がさまざまに異なった向きで散在しています。これは、氏神を祀る以前の風習の名残りかもしれません。
かつてあった畑作地や山林の管理のためか、数十年前まで頻繁に使われていたと見られる小径の跡が縦横に残っています。道跡の傍らには馬頭観音(石仏)が立っていますが、これは人びとが頻繁に行き来した証拠だといえます。
観音堂前から阿弥陀堂を眺める
阿弥陀堂の内陣: 阿弥陀如来に毘沙門天が脇侍する
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