鹿曲川の右岸をめぐり、旧望月新町跡、音正寺跡、大応院跡を訪ね、遠い昔の姿を思い浮べます。1742年の大洪水の前には、望月新町は鹿曲川の右岸にありました。集落の入り口から――右折して街通りに入らないで――まっすぐ東方の山裾に向かうと、音正寺という寺院があったそうです。
また、長坂には大応院跡がありますが、これは真言宗当山派の大寺院で、密教修験の拠点だったようです。
◆旧望月新町の跡を探訪する◆
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▲鹿曲川河畔、中ノ橋の東側に立つ中山道望月新町跡の碑
▲現在の中ノ橋。江戸時代には堤防下の河床に橋が架けられていた
▲現在の中ノ橋は、嵩上げした堤防から架橋されている
▲旧新町跡は、今は河岸の畑作地になっている
▲同じ段丘の北側にある水田は、御牧原台地から流れ下る沢の水を利用 |
中ノ橋を渡って東に進む小径
1742年(寛保2年、戌の年)の大氾濫で望月宿発足当初からあった新町は壊滅しました。水害からの新町集落の再建は、鹿曲川の対岸に移り、望月本町の南端に接続する形でおこなわれました。⇒再建後の新しい町割り
それ以前の旧い望月宿は、神明宮を過ぎた辺りで東に曲がって中之橋を渡り、鹿曲川の右岸にある新町のなかを往く道筋で、長坂にいたりました。街道は何度か直角に曲がりますが、そういう場所では桝形が築かれていたはずです。
したがって、中之橋を渡ってから新町に入る曲がり角にも桝形があったでしょう。
初期の望月新町は、一番下の河岸段丘に位置していました。望月新町跡の石碑はそこに立っています。その頃は、鹿曲川には自然堤防しかなく、水害の脅威が今日よりもはるかに大きかったのです。というのも、新町の辺りで川が大きく左に曲がるため、水流の大きな破壊力が右岸にまともにぶつかってきたのです。
現在、鹿曲川の右岸(東岸)を往く主要道路は、古い新町があった段丘よりもひとつ上の段丘上を通っています。その段丘上に城光院や信永院が位置しています。寺院は安全な高台に建立したのです。
旧新町の跡は、今では畑作地や草地になっています。昭和期になると、治水土木が発達して強固な護岸が設けられたので、旧新町よりも川の近くに住宅が建てられるようになりました。
この段丘上を川の少し下流まで歩いて見ると、今でも水田が営まれています。河畔の肥沃な土壌では、何を栽培してもよくできます。水田の灌漑揚水は、東に迫る御牧原高原台地を流れ下る沢を利用しています。今から500年ほど前、人びとが高原台地から河畔に降りてきて水で開拓を試みた、その頃の風景が脳裏の浮かびます。
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◆音正寺の跡を探訪する◆
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▲ひとつ上の段丘上の山裾斜面をのぼる。棗の樹がゆかしい。
▲急な斜面につくられた段々畑や棚田跡
▲段丘斜面の最上壇に残る大乗妙典供養塔。これが音正寺跡の一角。
▲最上壇から望月の街を眺める(ここの標高はおよそ700m)
▲この大石は伽藍の柱の礎石だろうか
▲この供養塔は、大乗妙典(経典)を500巻筆写して壺に入れて埋め、その上に記念塔を建てて、村の平穏や繁栄を祈願したもの。村人が頻繁に集まったり通ったりする場所に建てる場合が多かったので、境内の脇を往く街道脇道があったと推測される。
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肥沃な大地で元気な野菜(ナスやキュウリやトマト)
棚田の縁は砦の石垣のようなつくり
明治初期に廃寺となった音正寺は天台宗の寺院で、南佐久郡八千穂の千手院の末派だったそうです。今のところ、この寺の由緒来歴を探る手がかりはありません。
天台宗の寺院だったということからすると、平安時代に望月の牧が営まれていた頃に創建された名刹だったのではないかと推測されます。望月は大和王権の権力が強く及んでいた地方なので、官牧の近隣に大和王権の権威を支えた寺院があっても、当然ですから。
音正寺跡は、望月城跡の真南の山裾にあって、その背後の尾根上には飯縄権現社の跡があります。密教修験の拠点となる寺院があって、堂塔伽藍や支院などが山腹斜面に連なり、城砦の近くまで寺領がおよんでいたとしても不思議ではありません。
現在、鹿曲川の右岸の差一番高い河岸段丘から続く急斜面をなすこの一帯は、棚田跡や段々畑が続いています。耕作地や草地の段差は、ほとんどが――土や草で覆われていても――石垣で支えられています。なかにはすこぶる大がかりな石垣も多く、城砦の郭壇にも似た大寺院の跡ではないかと想像できます。。
今は、かつての境内の片隅に大乗妙典供養塔――1753年(宝暦年間)の建立――が立っているだけです。
「大乗妙典五千部供養塔」と刻まれている
中ノ橋を渡って東に進む小径
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◆大応院の跡を探訪する◆
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▲中山道長坂の急勾配。この右側が大応院跡らしい。
▲石仏群前からの風景。左手が大応院の跡地らしい。
▲跡地の一隅に立つ石塔・石仏群
▲崖下の左奥が大応院跡地(の一角)
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中山道長坂石仏群の向かいに石塔が並んでいる場所が、大応院跡だと伝えられています。明治初期に廃寺になったそうです。遺構は石塔のほかにはほとんどなく、真言宗当山派の修験霊場だったこの寺がどのような構造だったのかを知る手がかりはありません。
大応院は台応院とも書くそうですが、この寺は、小県と佐久の両郡の系列の寺院群の触れ頭(筆頭)だったそうです。有力な大寺院だったのです。
目の前の崖の上は御牧原台地高原で、ここは飛鳥時代から大和王権直轄の馬牧場で、官衙もあって都から派遣された役人の駐在館もあったようです。したがって、ここに真言宗でも有力な密教修験の拠点があったのは、別に奇異なことではなかったのです。真言宗も天台宗と並んで、大和王権の権威を支え「国家鎮護」を担う宗教装置だったのですから。
ここから山裾尾根を200メートルあまり進んだ鹿曲川の右岸岸壁に蟠龍窟弁天堂や社殿群がありますが、これらも地の神を祀り尊崇する真言密教の使節だったのではないでしょうか。
今は、かつての境内の片隅に大乗妙典供養塔――1753年(宝暦年間)の建立――が立っているだけです。
長坂から街を見おろす一帯に七堂伽藍があったか
この峻険な山が密教修験の場だったと見られる
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