中山道望月宿の地形 宿場街と河岸段丘
上の絵図は、江戸時代、1742年の鹿曲川大氾濫が発生する前の中山道望月宿の河岸段丘の地形を示す絵地図です。
望月宿一帯の地形は、大雑把に見ると、鹿曲川を挟んで左右両岸ともに2段の河岸段丘からなっています。中山道と宿場街は一番下の段丘に位置していて、その背後に上の段丘崖が迫っています。鹿曲川の左岸では、本陣や脇本陣などがある段丘のひとつ上の段丘の上に大伴神社があります。右岸では、2段の段丘の背後に御牧原台地の尾根山裾が迫っています。その尾根峰上に望月城跡が位置しています。
茂田井宿から尾根の背を越えて鹿曲川の谷間に下ってきた旅人は、望月宿の北西端の桝形を2つ通り抜けて宿場街に入ることになります。この鉤の手の細道は、張り出した尾根の崖の縁を通っています。
宿場街を南東向きに600メートルほど進むと、緩やかに右(南)へと曲がりまが、その手前辺りから上り坂勾配が気になってきて、ゆっくりと上の段丘にのぼっていくことになります。大伴神社や本陣の辺りでひとつ上の段丘だった丘がも新町では河畔まで迫ってきているのです。将来の望月新町は上の段丘に位置することになります。
1742年までは、この曲がり角で左折して北東に向かい、中之橋を渡って鹿曲川を渡りました。そこで右折すると、江戸時代前期の望月新町だったのです。新町は、望月宿を補助する加宿の新興の農村集落だったようです。中山道はそのあと長坂の登り口まで進んで東に曲がり、瓜生峠にのぼっていきました。
新町の入り口で右折しないで直進すると、山裾に音正寺がって、境内脇を抜けて長坂石仏群の辺り――崖下――に出る脇道があったようです。