今回は、望月宿南端の鉤の手道の桝形跡から段丘崖を下って、長坂橋まで探索することにします。⇒往時の鉤の手と桝形の形
鉤の手道と桝形の全貌を知ってもらうために、段丘崖を下る坂道入り口の鉤の手(桝形跡)から歩きましょう。往時は、曲がり角の下の坂道の幅はせいぜい2間ほどだったようです。
江戸時代の崖はもっと道側にせり出していたかもしれません。そして、坂を降り切ったところの曲がり角はもっと角度がきつかったでしょう。しかも、曲がり角の両端に小さな石垣があって、桝形をなしていたようです。そして、崖の下を北向きに往く宿場の裏手の細道があったようです。⇒江戸時代の町割り絵図
崖の下を左手に行く細道があったらしい
坂の下の石垣桝形のやや上には、宿場の出入り口を画す木戸が設けられていたと伝えられています。八幡方面から来た旅人は、石垣桝形を抜けてから木戸をくぐったそうです。それから坂道をのぼって、また鉤の手を右に曲がり、少し歩いてさらにまた右に曲がって街に入ったのです。たぶん、この宿場は桝形がくどいと感じたはずです。
河岸ではこの辺りが一番標高が低いようだ
坂の下の道路の曲がり具合は、現在は相当に緩くなっています。したがって、道なりに応じて家並みの形は違っていました。もっと北側に凹んでいたというか、奥まった配置だったでしょう。今、緩やかなカーヴ沿いに並ぶ作業屋などは、新たな道路ができてからのもので、往時はそこに建物はなかったはずです。
坂を降り切ってから長坂橋までの道は、低い場所だったので、鹿曲川の越水や氾濫による水害の程度はひどかったでしょう。したがって、現在のような家並みはつくりようがなかったはずです。
長坂橋の手前で後方を振り返ってみると、新町の家並みは段丘崖の上に見えます。つまり、これだけの高低差がある道筋を歩いてきたわけです。
二階の窓は縦密格子が並んで美しい
長坂橋の西の袂には、今は古民家風の出梁造りの住宅があります。きれいに修復してある古民家なのでしょうか。水害の危険が大きいこんな川岸に家を建てるようになったのは、早くても明治以降(とくに昭和期)だと思いますが、わざわざ伝統的な造りの家を建てたのでしょうか。それとも、ここに古民家を移築したのでしょうか。
現在の長坂橋は、川縁の自然堤防の上にさらに1メートル以上も嵩上げして、川面から3メートル近くの高低差を設けてあります。しかし、江戸時代には、自然堤防からアーチ型の橋を築いたでしょう。そして水害のたびに橋は流され、そのつど立て替えたようです。そのために、望月とその近辺の集落は、幕府や藩の指示で橋を建て替えるための財政御負担を負う組合を結成していたそうです。
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