今回は望月新町の街並みを探訪しますが、バスターミナル跡からひとつ目の鉤の手の曲がり角(桝形跡)までとします。中山道の道筋を示す道標にしたがって道を取ると、ひとつ目の鉤の手から数えて(左、左、右と)3回曲がって、河岸まで降りていきます。次回の街歩きで、急坂を利用した桝形跡から長坂橋手前までの区間を歩く予定です。
▲この広壮な古民家は明治から昭和初期までのあいだに修築または改築されたものではなかろうか
ここには18世紀半ばには3軒ほどの家があった。その敷地を買い集めて、この広壮な家屋を建てたと見られる
望月新町が現在地、鹿曲川の西岸に移転したのは、1742年の大水害(寛保2年 戌の満水)からの望月宿の再建時においてでした。その後も、1765年(明和2年)、1802年(享和2年)、1808年(文化5年)、1829年(文政12年)、1855年(安政2年)と翌56年、1859年(安政6年)に洪水があったと記録されています。
▲旧中山道はこの辻を左に曲がり、さらにもう一度直角に左折する
とはいえ、新町は、本陣や脇本陣がある場所よりも1つ上の段丘にあって、標高が少なくとも10メートルほど高くなっているので、これらの洪水ではそれほどひどい被害を受けていないものと見られます。
しかし、同じ街並みのなかでそれだけの高低差があるような急勾配の谷底を鹿曲川が流れ下っていて、しかも流路が急な曲がりになっているのです。
流速を増しながら御牧原台地の下の岸壁に跳ね返された濁流は、高いうねりとなって望月宿の集落の中心部に襲いかかることになったはずです。
このような水害後の宿場街の再建のため、街の財政負担は非常に大きくなり、その分担費用を拠出できない家は望月から出ていくことになります。幕末にかけてこの街の戸数と人口は急激に減ったそうです。裕福な家は無住となった屋敷地を買い取って、間口を広げました。⇒望月宿の街並み・町割り絵図