中山道沿いの茂田井の街並みから700メートルほど南の尾根裾に倉見城跡という史跡があります。今は説明板が立っているだけです。
  説明板は、15世紀末から16世紀半ばにかけの倉見城をめぐる歴史を説明していますが、じつは、倉見城は鎌倉時代(13世紀前葉)からの歴史があるようです。そして、城の規模も従来考えられていたよりも広く、茂田井の南に張り出した3筋の尾根全体におよぶものであったことを裏づける地理的な条件があります。⇒参考記事


◆倉見城跡を探索する◆



倉見城跡の段丘: 城跡と呼ぶには狭い縄張で、城館ないし居館と呼ぶb根基ほどの規模だ。背後に尾根がある。

  結論から言うと・・・倉見城跡の高台には背後(南)と西から尾根が迫っている。このような場所に城砦を築くことはまずありえない。おそらく鎌倉~室町前期まで領主の居館だったのであろう。後代になって、城砦は、左右と背後の尾根上に連なるように築かれたであろうと考えられる。


▲右端が城跡遺構の北端で、そこから上に城郭跡があるという


▲曲輪跡(段郭)は今は畑となっている


▲堀切跡や段差がいたるところに見られる丘の上の畑作地


▲段丘の中央部はすっかり藪に覆われている


▲切通しの段丘崖の上にある小さな石祠。下の道は降小路に向かう。


▲道路建設のために斜面を切通したため、崖はさらに急になっている


▲この曲輪は、南端の切通しによって背後の尾根筋と切断されている


▲城跡の下の尾根裾を流れる倉見沢の小さな流れ


倉見城跡の説明板: 背後の丘に城館跡がある

建物の奥の段丘が城跡遺構

  茂田井集落から700メートルほど南の丘陵地に倉見城跡があります。そこは、茂田井集落に向かって2つの尾根が張り出している谷間の段丘上です。
  一番上に掲載した写真が、谷間扇状地の扇端から見た景観です。尾根の下に位置する段丘上なので、室町~戦国時代の城砦の立地としては、やや奇異というか破格の場所です。
  この谷間の段丘は、茂田井から福王寺に連絡する道路沿いにあります。この道路は、福王寺に向かって尾根沿いの斜面をのぼっていく道です。尾根の最頂部の峰は、寺の北西200メートルの地点にあります(下掲のグーグルマップを地形モードにして参照のこと)。


段丘上(畑作地)から集落を見おろす

人工的に施した段差(曲輪跡)が幾重にも連なる

  倉見城跡がある小高い丘は、茂田井集落に向かって南から北に張り出した2筋の尾根のあいだにあって谷間を見おろす位置にあります。2筋の尾根のうち西側の尾根の裾(中腹)の裾から盛り上がった小さな丘の先端にあるのです。
  この谷間には倉見沢という小さな沢が流れていて、沢の水を利用する棚田が連なっています。昭和期の圃場整備で、今は水田1枚当たりの面積が拡大されていますが、以前は幅の狭い棚田が斜面に連なっていました。
  城跡がある小高い丘は西の尾根の中腹から張り出したものですが、城郭の曲輪の西端は切り削られて急な――高低差4メートルほどの――崖になっています。崖の下(西側)には、茂田井集落から福王寺に往く小径が南北に通っています。


曲輪南端の切通しの農道

  左掲の写真は、城跡の下の谷間の水田地帯の端、尾根下を流れる倉見沢の様子です。冬の渇水期なので、水量はごくわずかです。
  下掲の写真は、谷間の茂田井集落の彼方に遠望できる浅間山、黒斑山、高峰高原へと続く浅間連峰の雄大な姿です。


城跡の下の谷間の彼方に浅間連峰を望む


城跡の西側の尾根から倉見城跡が位置する小さな尾根丘を眺める。郭壇が切通しで切り立っている。

◆一帯の地形から倉見城跡を位置づける◆


  室町後期から戦国時代の城主居館は、地形から判断して、今無量寺がある場所に築かれていたと見るのが一番自然だろう。その背後に迫る尾根の上に砦が連なり、奥の尾根峰に城砦の本郭(主郭)があったのだろう。

▲城跡の北西端は道路建設による工事で近いが変わってしまった


▲西の尾根から熊井城跡の全体を見渡す


▲段丘斜面の最上壇に残る大乗妙典供養塔。これが音正寺跡の一角。


▲最上壇から望月の街を眺める(ここの標高はおよそ700m)


▲尾根の背に段差をつけた曲輪跡のような地形がある


▲この場所は砦の跡のように見える


▲曲輪とのような場所の直下には無量寺を見おろすことができる


▲無量寺の上の尾根の背からは北東に浅間連峰が見える


城跡案内板から西側に尾根を望む

城跡の北側の地形(谷間の斜面の様子)

  倉見城跡の案内板の脇に立つと、西側の尾根が南から茂田井集落に向かって張り出しているのが見えます。地形としては、室町後期以降に城砦が築かれるとすれば、むしろこの尾根筋の方がふさわしい地形です。
  そこで、この尾根に上って、尾根筋地形を観察し、また倉見城跡の地形を俯瞰して眺めてみることにしました。

  倉見城跡の西側の尾根は、無量寺の境内の東側の背後に迫っています。この尾根上からは、倉見城跡の丘を俯瞰する(下に見る)ことができます。ということは、軍事的防衛のためには、この尾根筋を確保して砦を連ねた防備を敷く必要があります。この尾根を敵に掌握されれば、城跡の丘は攻略されたも同然ですから。この尾根の背への敵軍の進入を何としても防がなければなりません。
  尾根の背を往く小径(農道)は、うず高い郭壇のような形状が連なる畑作地を通っています。おそらく、ここに城砦の設備のひとつが置かれていたに違いありません。しかも、そこからは、無量寺の境内を見おろすことができます。無量寺は、尾根の城砦の列を背景とする領主居館の跡だとすれば、この地形は納得です。居館の背後を山城の曲輪が防備するのですから。
  戦国時代まで茂田井の集落の南端にあった無量寺が、戦火で失われたのち、城主の居館跡に移転して再興したと見ることができます。

  尾根の背には、茂田井集落から南に向かう農道が通っています。この尾根道は古くから人びとの交通往来が盛んだったようです。というのも、江戸時代の建立と思われる自然石のままの馬頭観音が立っているからです。馬頭観音は交通盛んな要衝に建てることが多いのです。おそらく、この尾根道伝いに隣の尾根の城砦跡――開墾されて畑になった――や福王寺まで行き来することができたはずです。
  この尾根の背からは、北東方向に浅間連峰を展望することができます。もちろん、茂田井の集落を見張ることも可能です。やはり、この尾根筋に砦が連なっていたといたと見るのが自然です。


尾根の背を往く道の傍らに立つ馬頭観音

竹藪の横を通る小径

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