塩名田宿の南側に小高い丘陵があります。その尾根上の霊園内に五輪塔群が保存されています。それらは塩名田宿に幕末まであった真言宗長寿寺の遺物です。
  明治時代に中山道が新街道令で国道扱いになってから、河岸段丘地形が少し改造され滝は埋め立てられ暗渠の地下水路になり、不動尊はなくなってしまったのです。そこには滝明神社もありましたが、明治末期の祠堂合祀令によって山王日枝社に移設合祀されました。


◆滝の埋め立てで失われ、後に再建された◆



塩名田宿の南側の小高い丘にある五輪塔群。長寿寺の遺物だが、今は正縁寺の霊園の中央にある。



▲丘ののぼり口の北には秀麗な浅間連峰が見える


▲一般の墓標群のなかに五輪塔群が集められている


▲梵字が刻まれた碑の背後から五輪塔・墓標群を見る


▲五輪塔は鎌倉~室町時代の武将領主の墓標のようだ


▲塩名田宿の街並みの南に隣接する福祉公園

 宿場の鬼門(北東方向)に山王日枝社が祀られていますが、これはまず密教寺院、長寿寺の鬼門を鎮護する日枝社として1673年よりも古い時代に創建されたものと考えられます。
 長寿寺と本陣や脇本陣は隣接しているので、結果的に宿場街の中心から見て鬼門方向にある日枝社をあらためて勧請し直して宿場街の守護神と位置づけたものと見るべきかもしれません。


この林道の下の福祉公園内に長寿寺跡がある

◆真言の密教寺院だったか◆

  浅科バス停跡の南側に、老人福祉施設などの施設が集まっている浅科社会福祉公園があります。この一角に長寿寺跡があるそうです。
  幕末まで真言宗の寺院があったのですが、明治維新で政府が強行した神仏分離や廃仏毀釈政策によって、多くの寺院は寺領などの資産を没収され経営基盤を奪われたりたり堂宇を破壊されたりして、消滅してしまいました。
  長寿寺もまたそのような運命をたどって廃寺となってしまったようです。
  廃寺跡に残されていた五輪塔や石仏などは現在、宿場街から350メートルほど南側の高台の移されています。そこは今、正縁寺の霊園で、その中央部に五輪塔・石仏群が集まっています。
  五輪群は塔は溶縮凝灰岩でつくられているようで、ずい分と風化しています。これらは鎌倉時代から室町時代にかけてこの一帯を統治していた武将領主たちのものだと思われます。
  他方、頂部が丸みを帯びて尖っている円筒形(逆円錐台)の石塔は、長寿寺の歴代の僧侶たちの墓標だと見られます。

  浅間高原から御牧原台地、蓼科山へと続く佐久平の山裾には古代から真言または天台の密教寺院つまり山岳修験の霊場が数多くあったと見られています。
  古代から中世まで、修験者や学僧たちは遣唐使あるいは留学僧として中国に渡り、当時の科学思想としての仏教――医学・薬学や農学、建築学などを含む――を修得したり、書物を持ちかえって研鑽し、その技能や知識を民衆に伝達しました。
  神仏習合の格式のもとで彼らは農村開拓なども支援し、民衆に医療を施したので、大きな信頼や崇敬を集めてきました。


頂部に突起がある円筒形の石塔は長寿寺歴代の僧侶の墓標

前の記事に戻る || 次の記事に進む |