■小諸道の経路■
落合から耳取を経て小諸に向かう古道は、おおかた河岸段丘面でも自然堤防となっている微高地や丘陵の背(尾根)を通っていたようです。
塩名田宿の中心部――宿場街建設の起点――は、落合から北に延びる丘陵を降りたところにある自然堤防の頂部でした。千曲川の水害の脅威から安全といえる場所です。ゆえに、徳川幕府は中山道の経由地として塩名田を開拓させたのです。
昭和中期まで繁栄した街だったようだ
というわけで、塩名田は小諸道と中山道との交差点となりました。落合から丘の背をやって来た古道は、塩名田で中山道と出会ってから東向きに80メートルほどズレて、自然堤防(微高地)の最高地点で小諸道に接続することになります
こうして小諸道は、塩名田宿の微高地から北に向かって緩やかに降りていくことになります。
右手の家屋は段丘の下の敷地に建っている
来し方を振り返ると坂を下ってきたとわかる
■自然堤防の微高地往く道■
それでも地形的に見ると、小諸道はみごとなまでに周囲よりも少し高くなっている微高地を縫うように通っています。往古の人びとは、千曲川の大きな氾濫のたびに水面に顔を出した微高地や丘、高台を記憶して古道の開拓を進めたものと見られます。
わずかな高低差を見きわめる往古の人びとの知恵と伝統的な測量技術の高さに感服せざるをえません。
自然堤防とは、千曲川の氾濫で押し寄せてきた水か引くときに残していった土砂が堆積してできた波状的な形の微高地です。したがって、じつに気紛れで不規則で変化に富んだ地形をなしています。道なりも屈曲や起伏が多くなります。
そんな小諸道は、いたるところで緩やかに曲がり起伏に富んでいて、地形の立体感や道と家並みの奥行き感が印象的で、旅情をかきたててくれます。
■千曲川東岸の田園を往く道■
中山道から小諸道に入って80メートルくらい北に進むと、しだいに田園の風景が入り混じってきます。
塩名田は、段丘上の自然堤防の頂部に築かれた小さな宿場街なので、中山道の両側の60~70メートルほどの幅の家並みの集合にすぎません。だから、自然堤防の微高地から離れると郊外の田園地帯になるのです。
この辺りになると、幕末から昭和中期にかけて養蚕が盛んにおこなわれたことを物語る伝統的な造りの民家が残されています。昭和後期頃に修築や補修を施された家屋もありますが、半分ほどは住人が絶えて荒廃した廃屋になってしまっています。
切妻棟入にして出梁造りの伝統的な建築様式の町家
塩名田宿の街外れから北東方向におよそ600メートル離れた畑作地・草地のなかには、鎌倉時代前期に築かれたと見られる豪族、大井氏の五領館跡があります。岩村田を本拠とし田大井氏が佐久平西部の千曲川河畔にまで進出し、勢力を広げたさいに最初期に築いた小規模な城館の跡だそうです。
小諸道からは東に200メートルくらい離れた小河川の谷間の北岸の微高地です。大井氏がここに初期の統治の拠点を置いて管制高地としたのは、やはり小諸道沿いの帯状の微高地の軍略的な重要性に鑑みたということでしょう。
さらに、古代の密教修験が盛んになって以来、小諸道は信仰の道で、塩名田の滝不動尊から正縁寺の参道を経小諸道に沿って、北におよそ1.5キロメートル歩くと耳取の玄江院にいたり、そこから小諸城下を経て浅間高原の真楽寺までたどることができます。
切妻棟入にして出梁造りの伝統的な建築様式の町家
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