塩名田宿の街道と町割り

  上の絵図は、江戸時代の塩名田宿の宿場の形と町割りを描いたものです。『浅科村史』第4巻 371−373ページの町割り図をもとに編集加工して作成しました。
  塩名田宿では、街区名は「町」ではなく「宿」をつけて呼んでいたようです。河原宿は後になってでき上った街区だと見られます。河原宿は川縁の下の段丘面にあり、中宿と下宿は上の段鬼面に位置していました。
  河原宿と中宿との間には段丘崖があって、中山道は河原宿から急坂をのぼって中宿に入りました。おそらくこの急坂の道はクランク状――直角に2回曲がるような道筋――で、そこには石垣を施した桝形が築かれていたものと見られます。
  下宿の東端にも桝形があったはずですが、飼料はなく詳しいことはわかりません。
  中宿と下宿との境界は、中山道から北国街道小諸宿に連絡する小諸道が分岐する地点(交差点)だったようです。

  この図では、中洲は城砦のような石垣で補強した土塁のようになっているので、幕末から明治にかけての結構ではないかと思われる。

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