現在、御馬寄と塩名田を結ぶ中津橋とその両側の嵩上げした道路は昭和初期(1931年)に建設されたものです。中津橋をクルマで渡ると、高低差10メートル以上もある千曲川の谷を越えたという感覚はありません。ここでは、それがなかった時代の地形や道路環境、家並みを想定ながら、塩名田の往時の姿を思い描きます。
そのため、中津橋とその周囲の誓や道路を観察して、「余分なもの」を差し引いて考察します。
■渡河は渡し船や橋で■
暴れ川の千曲川は、流水の浸食作用によって削り取った膨大な量の土砂・岩石を山間から運んできて堆積させてきました。したがって、増水氾濫のたびに流路や川幅など地形を変えてきました。
1580年代に中山道の前身の街道がつくられて以来、塩名田近辺における千曲川の渡河地点、つまり橋や渡し船の位置がしばしば変わるのは当然です。そのため、渡河地点についてはいくつもの伝承や言い伝えが残されています。
たとえば、塩名田宿本陣を務めた丸山新左衛門(良忠)は著書『後見草』(1793年)で、1602年に公式に塩名田宿が設けられる以前には、現在の中津橋よりも上流の船久保から駒寄柳坂を結ぶ地点で渡し船が往来したと記しているのだとか。
橋から嵩上げした道路が上の河岸段丘面に連絡している
別の言い伝えでは、中津橋よりも下流の土合で渡河したとされています。
中山道が制定されてからは、享保年間(1720年頃)までは本流のなかに大きな岩石がいくつかあったので、それを基礎として桁を立てて西岸(御馬寄)側から長い木材を差し渡して橋としたそうです。こういう橋を「投げ渡し橋」と呼びます。
その大岩が享保6年(1721年)に流されてからは、流路のなかに石垣または石積み塁を築き、塁側と西岸からそれぞれ長い木材を斜め上に向けてせり出させて(刎ね木と呼ぶ)支えとして、その上に板橋を架ける方式で架橋したそうです。これを「刎ね橋」と呼びます。
上記いずれの場合も、塩名田側からは水面に出ている石積みに材木を平らに渡しただけの平橋を架けていたそうです。
この記録から、塩名田=御馬寄では、千曲川は中州によって大小二筋に分流していたことがわかります。
橋が架けられていた地点。ここには中洲があって、大小2つの分流がある。橋は塩名田側と御馬寄側の2か所に架けられた。今は中津橋の橋脚の土台がある
ところが、増水のたびに橋が流されてしまい、橋普請の役を担う近隣郷村が疲弊したため、寛保年間から寛延年間まで(1743~1750年)は渡し船方式になりました。
1742年(寛保2年)の大洪水――戌の満水と呼ばれる――で各地で土崎竜也土砂崩れ、田畑の水没が発生して、多数の死者を出し多くの村落が壊滅的な被害を受けたために、流失した橋の再建費用を担えなくなったのです。大水害からの復旧・復興におよそ8年かかったのです。
とはいえ、渡し船は不便なので、結局、架橋方式が復活しました。今度は橋大工が架橋工事を担い、橋の再建費用を近隣の郷村は橋組合をつくって負担することを義務づけられるようになりました。
享和3年から明治5年まで(1803~1872年)は長さ約70メートルの平橋が架けられていました。それ以降は、財政が逼迫して橋組合による橋の再建の費用負担が不可能になったことから、川面に船を並べてその上に板を架け渡す船橋方式となり、1892年に長野県による木造橋が架けられるまで続いたそうです。
江戸時代から明治初期までの260年間に、落橋が69回以上、架橋が83回以上も繰り返されたということです。
■寒村から宿場街へ■
16世紀末から17世紀はじめのころの塩名田は、草葺きの貧相な家屋が40軒あまり並んだだけの寒村でした。近隣の村々から移り住んだ人びとが、渡河の拠点として小集落を建設し始めたばかりだったようです。
やがて18世紀後半になると、住戸数は120~130軒ほどになり人口も600人以上にまで成長したと見られます。ところが19世紀半ばに近づくと、荷物の継立てや架橋などの費用負担の重みに耐えられなくなった住民たちが立ち退いて、住戸数と人口が減っていったようです。
天保年間(1843年)の『中山道宿村大概帳』によると、塩名田の人口は574人、住戸数は116軒となっています。幕末期には中山道と宿駅は財政破綻の危機に直面していたようです。
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