1742年の大氾濫(戌の満水)による大水害については、現佐久穂町や小海町にあった数か村は土石流に襲われて丸ごと流されて多数の死者を出し潰滅状態になったという記録が残されています。
そういう上流部での増水や氾濫をもたらした膨大な量の水は塩名田にも押し寄せたようです。河原宿となる下の河岸段丘面も流水が達して、茶屋をことごとく破壊し押し流したと考えられます。
とはいえ、この時期までは河原宿と呼ばれるほどの集落は形成されていなかったと推定されます。
道脇のアカマツが懐かしい雰囲気を醸している
昭和期に修築したか、本棟造りで出梁造りの町家
■水害で疲弊して橋は再建できず■
言うまでもなく、塩名田と御馬寄との間にあった橋はすっかり破壊され流されました。ところが、大規模な水害で佐久地方の村々は大きな打撃を受けました。村が丸ごとなくなってしまったところもありました。冠水した田畑の復旧にも費用や人手がかかりました。
とうてい橋の再建に振り向ける資金も人手もありません。そのため、翌1743年から8年間は、橋が再建されずに渡し船や輦台による渡河となりました。輦台とは、井形の担ぎ棒の上に四角形の台座を設え、そこに人を乗せて運ぶものです。
そうなると、橋を渡るのに比べて川越えに何倍もの時間がかかるようになりました。渡し船の順番を待つために長い時間を岸辺で待機しなければならなくなったでしょう。待ち時間が長くなって、その日のうちに川を越せこせない旅人もいたでしょう。
■川越え待機のために街ができたか■
小屋がけの茶屋では間に合わなくなり、長時間の滞留に備えた常設の町家の休憩所や宿、食事処が必要になったはずです。しかも、塩名田の河岸は景勝地で、千曲川河畔の崖地形や森、蓼科山や浅間山の遠望などを楽しめました。ゆっくり休憩しながら川魚料理を楽しもうという旅人もいたかもしれません。
してみると、戌の満水後の時期――18世紀半ば――に河原宿に家並みが建設されたのではないかという推測が成り立ちます。
河原宿という街区ができたことで、当初の上宿は中宿と呼ばれるようになり、塩名田宿は下宿と合わせて3つの集落から構成されることになったのではないでしょうか。
橋が架けられていた地点。ここには中洲があって、大小2つの分流がある。橋は塩名田側と御馬寄側の2か所に架けられた。今は中津橋の橋脚の土台がある
■河原宿近辺の地形は改造された■
6メートルほど嵩上げした橋東詰め道路
橋から嵩上げした道路が上の河岸段丘面に連絡している
現在、御馬寄と塩名田との間は中津橋で結ばれ、中津橋の端からは土盛り嵩上げした道路で河岸段丘上の中山道に連絡しています。江戸時代の河原宿近辺の土地よりも5~6メートルくらい嵩上げしてあるのです。
そのため、河原宿の家並みの南側の背後に嵩上げした道路の擁壁法面が迫っているのです。そうなるまでの経緯はこうだったようです。
明治政府の新街道令によって中山道は一級街道(国道扱い)になり、明治25~26年(1892~93年)長野県が木造の平橋を架け、中山道がそこに連結しました。そのとき路面は河原宿がある地盤とほぼ同じ高さだったと見られます。国道は段丘崖を下ってから橋を渡りました。
江戸時代には河原宿の東側の崖は2段になっていたようです。そして河原宿の東端には崖から滝が流れ落ちていたそうです。滝の下には不動尊があって、滝不動尊と呼ばれていました。国道は、滝を埋め立てて建設されました。
ところが1931年(昭和6年)、中津橋は鉄骨プラットトラス構造の端に造り返られ、そのさい国道は土盛りによって両岸の路盤を嵩上げされ、現在の高さに地形を改造されました。その後2017年に支承と橋台の補修がおこなわれています。
こうして、河原宿の街道南側の家並みの背後に嵩上げした道路ができてしまったので、それまで二階建てだった家のいくつかはさらに一階または二階分を増築して三階または四階造りにしたのです。
ところで、河原宿通りは川縁から崖下まで1.5メートルくらいのぼっていますが、目前に迫る崖の高さは5メートルはあります。旅人は、合計で7メートル近い標高差をのぼることになりました。
現在の中津橋に連絡している嵩上げした舗装道路は1931年までなかったのですが、滝の埋め立てとともに滝不動尊堂も消滅しました。その後昭和9年(1934年)に、不動尊は舗装道路の上の段丘面に移設再建立されています。
江戸時代には崖の上から滝が流れ落ちていたという
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