向澤山深入院正縁寺の開基や創建などの来歴のほとんどは不明です。塩名田宿が開かれてからできた寺は、浄土宗知恩院の末寺とされているそうです。寺伝では、戦国時代に戦禍で焼失し江戸時代の前期――元和ないし寛永期――にこの地に再建されたということです。
  ということは、塩名田宿の建設とともに再興され隆盛したということになりそうです。


◆開基・創建の来歴は不詳◆



薬医門でもあった四脚門から境内に入った庭園の先に端正な造りの本堂がある



▲細道の奥に小ぶりな山門が見えてきた


▲境内西端の庫裏・居住棟から本堂を眺める


▲山門の背後に植栽庭園があって、その一角に石仏群が並ぶ


▲端正に手入れされた境内の和風庭園には池もある


▲庭園を降りて本堂前に向かう


▲尾根寺境内の南西端に稲荷社が祀られている
 境内の説明板によると、天明7年(1787)年に稲荷社を勧請し、その後も養蚕が盛んになって篤く信仰されたそうだ。


▲稲荷社の蓋殿の背後は河岸段丘崖で千曲川を見おろすことができる


▲瓦葺き流造の蓋殿のなかに稲荷神社(本殿)が置かれている


自然堤防の縁に立つ山門。境内は少し降りた地盤にある

  河原宿から急坂をのぼって中宿の入り口で左折して北に向かう細道が正縁寺の参道です。この小径は、はるばる御代田の真楽寺に参詣する道の起点ともなっているようです。
  細道を80メートルほど進むと、正縁寺の瓦葺きの山門がたっています。山門は四脚門ですが、もともとは扉が付いた薬医門だったようです。

  さて、寺伝を参考にして推定すると、どこか別のところにあって戦国時代に衰微荒廃した寺院が、宿場が建設され始めてまもなく――1920年代頃か――この地で再興再建されたものと見られます。それ以前の宗旨が浄土宗だったのかどうかはわかりません。
  塩名田宿には、幕末まで中宿の南側に真言宗の長寿寺があったと伝えられています。宿場発足の当初は、その寺院がこの地に移り住んで街を開いたびとの信仰のよりどころとなったのではないでしょうか。
  正縁寺は、宿場街の土台が形づくられてから、さらにこの宿駅に移住してくる人びとの信仰にも応えるために、別の地で荒廃していた寺院を招いて寺領地を与えて再興再建したのではないでしょうか。


本堂前から山門と庭園植栽を眺める

◆小諸と御代田への街道の横にある◆

  ところで、正縁寺の参道はまた、御代田の大寺院、真楽寺への参詣道ともなっていて、滝不動尊脇に道標が立てられています。この参詣道は、正縁寺の東脇を抜けて小諸道に合流します。
  してみると、耳取村かさらに小諸寄りの場所から正縁寺が移ってきたのかもしれません。江戸時代前期には、浄土宗や曹洞宗などの僧たちの運動で信者を共同体がつくられ、戦国時代に衰退荒廃した寺院の復興や再建立が進められました。

  ところで、山門の西脇には正縁寺に付属する稲荷社が祀られています。明治維新では政府によって神仏分離や廃仏毀釈が強行されたため、神社は寺院から分離され、しかも多くの寺院が破却されてしまったのですが、この寺と稲荷社は運よく往古からの伝統を守ることができたようです。
  あるいは、屋敷神のように境内の片隅にあった稲荷社を後にここに祀り直したのかもしれませんが。
  塩名田にあったもうひとつの寺院、真言宗の長寿寺は、そういう明治初期の混乱のなかで廃寺になってしまったそうです。

  稲荷社の本殿は小さな祠ですが、瓦葺き流造りの蓋殿(覆いの社殿)のなかに安置されています。それだけ、稲荷社は丁寧に祀られているわけです。
  蓋殿のなかを覗くと、祠の基壇にはいくつもの土雛の狐が並べられています。近隣の信者たちが奉納したものと思われます。
  蓋殿の場所は境内の南西側の端で、崖縁にあります。社殿脇から5メートル以上も下の谷底を流れる千曲川を見おろすことができます。対岸には、御馬寄側の水田地帯があります。


稲荷社の本殿: 狐の土雛が並べられている

  境内の説明板に記された正縁寺に関するわずかな情報を参考にして、こう考えられます。
  佐久地方では時宗を含めた阿弥陀(浄土)信仰がもともと盛んで、塩名田の南方の落合には新善光寺(落合善光寺)があった。戦国時代にこの寺は焼失したが、浄土信仰を奉ずる僧侶たちは残され、信仰の拠点や信徒団も維持された。
  信仰の拠点が深沢――正縁寺の山号の由来か――という場所にあったのかもしれません。やがて、元和・寛永期に超誉一念和尚がここに寺を開山したときに、阿弥陀仏との結縁を象徴して「正縁寺」という寺号をつけたのではないか・・・と。

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