■水沢水神宮■
まさに小春日和ともいえる晩秋の柔らかな陽射しを浴びながら、私は野歩きを楽しみました。
すると、道路脇に古くから農耕が発達した和田郷に似つかわしい水神様を祀った祠と池があります。水沢水神宮です。場所は、菩薩寺から300メートルほど北で、水神宮の池には豊かな水が滔々と絶えることなく流れ落ちています。
この水神様についての史料はないようです。
水神とは、飲料水や農業用灌漑用水に関する恵みを人びとが求め感謝する自然崇拝ともいえます。
和田郷には依田川、男女倉川、追川(野々入川)、ホドノ入川、松沢川など、和田郷には豊かな推量の河川が数多く流れています。豊富な水に恵まれた里なのです。
この水神宮は、自然の恵みの感謝し、その永続を願う人びとの心を写すものなのでしょう。
■文殊堂・道祖神・二十三夜塔■
久保の文殊堂(羽田家のお堂)▲
山沿いの道を歩き続けると、刈宿と久保との境界が入り組んでいる場所に来ました。近所の老婦人に「ここは刈宿ですか、久保ですか」地名とその境界を尋ねました。説明を受けても、私が理解できないほど境界入り組んだところです。
しばらく歩いて、急傾斜の小径に沿って沢が流れ下る辻に来ました。その山側の角には、近隣では「羽田一族のお堂」と呼ばれる祠や石塔、お堂がありました。すぐ近くに羽田氏の居宅があるそうです。
この辺りの古老によると、先祖から伝え聞いた話では、やはりこの地区の羽田一族は、古代中国や朝鮮半島から戦乱や迫害から逃れて渡来した秦族の末裔のようです。
千数百年前に高度な鉄器文化や漢字、仏教文化、騎馬術など、高度な文化を携えてこのあたりの山里に隠棲し、農耕地や村落の開拓を指導したのではないでしょうか。
そして社稷あるいは祖霊を祀る場所をつくり、代々一族の霊廟となる小堂を建立したのではないか、そんな思いがします。
「文殊堂」とは釈迦に仕える智慧の神を祀ったお堂ですから、高度な文化をもたらした秦族の堂として似つかわしいのではないでしょうか。
近隣3回目の取材のさいに私は運よく、文殊堂の境内の松を剪定していた羽田家(本家)の当主の方と話をする機会を得ました。
羽田さんによると、代々自分たちは渡来人の家系で、戦国時代まで「はた」という姓は長らく「秦」で表記してきたが、真田信之から扶持を受けるようになったときに「羽田」に変えたと、先祖から伝えられてきたとのことです。
そして、この文殊堂の管理も羽田家本家の役目として受け継いできたそうです。
古くからの造りを残す民家(刈宿地区)▲
■久保神明神社■
さて、散歩をしていた老婦人に聞いたところでは、文殊堂の上に神社があるということなので、行ってみました。坂道を登り切った辺りの道の東側の草原に神楽殿と社殿がありました。
老女の話では、子どもの頃から「久保の神社」と呼ばれていたが、正式な名称は知らないとのこと。羽田さんによると住民は「神明神社」と呼び習わしてきたそうです。
老女は「70年ほど前、小学生の頃には例祭の日には近隣の子どもたちが大勢集まってそれは賑やかだった。ことに刈宿には神社がないので、そこの子どもたちもやって来たものだ」と語っていました。
境内奥に並ぶ3つの社殿の名前はわかりません。祠の左端の石碑には「御岳神社」「圥婆大神」が横並びに刻まれています。
御岳神社は、中山道の各宿場街や近隣村落に数多く見られます。中山道は多数の御岳信仰の講が御岳詣でをするために旅をした道でしたから、まあ当然です。
しかし圥婆については、皆目わかりません。「圥」の意味は「きのこ」だということですが、ほかに当て字として使われた場合に「山深いところ」という派生的な意味もあるようです。
だとすると、「きのこ」を祀った神社、あるいは「山姥」を祀った神社ということになるのでしょうか。
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