▲境内からの信定寺方面の眺め
和田神社の祭神は、素戔嗚尊、大国主命、少名彦命だとか。古くから村人の尊崇を集めてきたこの神社は、幾たびか名称が変わってきました。そしてまた、村の歴史的変遷とともに、神社のおかれた環境も変化してきました。
◆名称の変遷◆
和田郷のなかでのこの神社の環境の変化や名称の変化を一番雄弁に物語るのは、旧中山道沿いの和田中学校校庭前に立っている、石造りの大鳥居です。大鳥居の建立に関しては、脇本陣翠川家の文書に記録が残されています。
この大鳥居は、寛政12年(1800年)に参道入り口に建立されたそうです。してみれば、江戸時代の神社の参道はここから始まったということになります。
ところが今では、この大鳥居と神社との間には、中学校と小学校、海洋センターなどとともに、数軒の民家があります。大鳥居の位置が往時のままだったとして、参道が比較的に直線的だったとすると、本来の参道は中学校と小学校の下に埋没していることになるということでしょうか。
しかも、大鳥居の扁額に刻まれた名称は「和田埜神社」となっています。これについての記録も残っていて、天保3年(1832年)に京都の吉田家(神祇管領長上家)から神宜状を得て「和田埜神社」となったようです。
ということは、少なくとも江戸時代には大宮明神から和田埜神社へ、さらに和田神社へと名称が変遷したということになりそうです。
◆鬱蒼たる樹林に取り巻かれて◆
小学校の裏から眺めると、和田神社は鬱蒼とした杜のなかにあります。
そこから急な坂を上っていくと、杜の手前の道脇に手水舎があって、その右手に木製の二の鳥居があります。この鳥居は昼でも薄暗い林の入り口になっています。林を構成しているのは主に杉ですが、サワラやアカマツも少し混じっています。
林の斜面のなかで一段高くなったところに和田神社の神楽殿があります。堂々とした神楽殿で、屋根は金属板で葺かれています。
▲正面から見上げた拝殿
◆拝殿と本殿◆
その奥に神楽殿と向き合う形で、石垣壇上に拝殿が立っています。さらに奥に本殿があるのですが、それは文化財としての価値が高いので、風や降水から保護するための透明な――おそらくアクリル製の――覆いで守られています。
拝殿の扉格子越しに本殿を撮影したのが、下の写真です。屋根など上部は見ることができません。例大祭のときには神楽を奉納するため、参拝できるように公開されるようです。
▲拝殿の奥の本殿
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