中山道八幡宿の宿駅の呼称のもとになったのが八幡神社だと伝えられています。この神社が八幡社と呼ばれるようになったのは鎌倉時代で、それよりもはるかに古くから神社はあったそうです。   八幡社の先進は「高良社」という社だったのですが、さらに古い時代には「高麗社」と呼ばれていたと伝えられています。古墳時代に渡来した人びとが、遠い故郷の祖霊を祀ったと見られています。彼らは、御牧原で大陸系の馬を育て、大和王権に献納していた人びとだったとか。
  その随神門の扁額は、政治権力としての「武」について説いています。


◆「武為戈止」◆



八幡宿という宿駅名のもとになったという八幡社の随神門



▲八幡社随神門の扁額には「武為戈止」と記されている


▲小松宮彰人親王による扁額の解題

  随神門の扁額には「武為戈止」と刻まれています。書き下し文にすると、「武はほこを止めるものなり」です。これは、武という漢字の成り立ちとして、弐+戈+止ということで、3つの部分からなっているということから, 干戈をまじえる戦いを止めることが、政治権力としての武(軍事力)の役割=意味であると説いたものです。
  これについて、小松宮彰人親王の解題が随神門に添付されています。
  小松宮彰人親王は、幕末から明治時代にかけての皇族で陸軍の高官。1846年(弘化3年)、伏見宮邦家親王の王子として生まれた。ひとたび出家して純仁と名乗り、王政復古で還俗げんぞくして名を嘉彰にもどしました。やがて東伏見宮から小松宮に改称し、名も彰仁とし、軍務に従事して陸軍大将、元帥となりました。つまり政治権力の中枢にいる軍高官、軍政官です。解題は軍政官らしい判断力を示しています。

  上記の解釈のほかに、止は「進む・歩む」という意味ももつので、「戈を携えて前に進む」という意味とする解釈もあります。これは、死を覚悟して大切なものを護る決意と覚悟、準備を意味するということだとか。

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