八幡社から中沢川の渓谷を挟んで北東に200メートルほど離れた丘に曹洞宗の禅刹、常泉寺があります。 この寺院は近隣の別の場所にあったのですが、中山道八幡宿が建設されたことにともなって、17世紀はじめにこの地に移転してきたようです。しかも、移転後十数年後ににさらに現在地に移ってきたそうです。


◆移転を繰り返して現在地へ◆



石仏や祠が傍らに並ぶ参道の先に「常泉禅林」という扁額を掲げた本堂がある

▲19世紀はじめよりも前に建立されたが未完成と伝わる山門。装飾性がまったくない四脚門だが、薬医門につくり上げる計画だったと見られる


▲境内参道脇に祀られた神社祠。何の社かはわからない。


▲六角形の石製の台座の上に並ぶ石仏。中央は大日如来か。


▲本堂は漸増でもあるようだ。「常泉禅林」の扁額が左寄りにある。



▲本堂の前は境内庭園


▲本堂と庫裏を結ぶ廊には唐破風の入内嶋が設えられている



▲庭園の西端からの本堂と庫裏の眺め


▲尾崎橋の下を流れる八丁地川の河床は段差が連続している


▲本堂の背後にも蔵などの堂宇が並んでいる

  私たちは今、明治維新から後に形成された社会=文化構造のなかで日常を送っています。そこでは、日本古来の神仏習合の宗教文化はとうに失われ、神仏分離の社会制度が行きわたってます。 したがって、神社に寺院が併設されていなくて「当たり前」です。とはいえ、古い由緒の寺院の境内には今でも神社の祠・社殿が祀られていることは、しばしばあります。また大町市の若一王子神社の境内には観音堂と三重塔が現存しています。
  で、八幡社の境内の片隅には何か所か仏教式の墓地があります。これは、幕末まで寺院と神社が一体化していた神仏習合の風習・仕組みの名残りです。ということは、八幡社にはすぐ近くに別当寺があったはずです。しかし、明治政府は国家神道思想を浸透させるために廃仏毀釈を執拗に展開したので、神仏習合時代の痕跡はなかなか見つかりません。
  さて、八幡社から北東に200メートルほど離れた丘に常泉寺があります。近隣なので、これが八幡社の別当寺だったのでしょうか。あるいは、常泉寺の支院または別院が八幡社の境内にあったのでしょうか。これを検証する痕跡は見つかりません。


山門脇にある石仏は観音または弥勒菩薩半跏思惟像か

山門を入ると参道西脇に六地蔵が並ぶ

  常泉寺の境内まで行ってみました。入り口の説明板によると、1493年(明応2年)、加賀入道沙弥道珍が御牧原の南斜面にある堂平の五輪山に臨済宗の禅庵を建立し、五輪山常月庵と称したということです。沙弥とは出家してまだ修業が浅い仏僧のことです。加賀入道道珍とは、室町幕府の奉行人を務めていて出家した飯尾元連、あるいは飯尾宗清ではないかと推定されます。自身、加賀守の官位を保有していたか、その一族であったようです。
  1576年(天正7年)、隠居して卯月斎と名乗っていた望月信雅が城館の鬼門にあたる場所の寺領を寄進し、常月庵はそこに移ったそうです。場所は不明ですが、おそらく御牧原台地の上だと推定されます。そのさい、この禅刹は堂塔伽藍を備えた寺院となり、常月院と寺号を改めたと見られます。
  信雅は、望月本家当主だった昌頼の弟です。昌頼は1544年に武田勢との戦闘に敗れて城を明け渡し、出家後に行方不明となりましたが、信雅が武田家に降り、望月家を継いだのち、武田信玄の実弟、信繁の子息を本家の後継者としました。
  さて、すでに別の記事で見たように、御牧原台地の山裾を通っていた戦国時代の街道は、布瀬川の南岸に移され、現在の中山道遺構の経路に造りかえられました。この改修と新町宿の建設にさいして、1607年(慶長7年)、常月院の堂宇は八幡上町に移りました。その跡地には別の機会に探索してみます。
  1615年(元和2年)、小諸市耳取の玄江院(曹洞宗)第2世住職の古山林鶴が退隠して八幡上町の常月院に転住し、その4年後、寺を現在地に移転しました。そのとき、近隣に八幡社があるので八幡山という山号に改めたそうです。そして、境内に湧水(江戸沢鉱泉)があったことから常泉寺と寺号を改変し、曹洞宗の寺院として開山しました。


石畳参道の西脇に並ぶ六地蔵は新しい

寺の南方の丘を往く旧中山道沿いの家並み

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