常泉寺の前身となった禅刹は、最初は15世紀末に御牧原台地の南斜面に創建されましたが、16世紀後半に望月信雅による寺域寄進を受けて御牧原上に移転し、さらに中山道八幡宿の建設にともなって宿場街の上町に移ったそうです。 そこから最終的に八幡社の北東の蓬田の丘に移って現在にいたっています。
  八幡上町を取材しているとき寺院の跡地を見つけました。今でも、その一帯に墓地が維持されています。そこを訪ねて往古を想像してみましょう。


◆八幡上町の常月院跡を探索する◆



4世紀以上前に禅刹は移転したが、その後も境内跡地と墓地は維持されてきた



▲かつての寺域の東端は今、空き地で、墓参用の駐車場になっている


▲日当たりの良い南向き斜面を往く小径は、往時寺の境内だった


▲近代になってからの墓石が並んでいる

  八幡宿上町に旧街道から南に入っていく小路があって、その道は南南西方向から南東に大きく曲がって中沢川の畔に向かいます。この小路を進むと、「いったい、往古、ここには何があったんだろう」と訝しく感じる場所に行き着きます。
  ひとめぐりしてみて、ここにはかつて規模の大きな寺院があったに違いないと確信しました。
  その後、調べてみると、次のような歴史が見えてきました。かつて堂平に常月庵という臨済宗の禅庵があって、16世紀後半に、武田家に降って家臣となった望月信雅――隠居して卯月斎と名乗る――による寺域地寄進を受けて御牧原上に移転し、17世紀はじめにさらに中山道新町宿(後の八幡宿)の建設にともなって上町のこの場所に移転してきたということです。


墓地の周りは丁寧に整備されている

  常月院が蓬田の丘(現在地)に移転したのち、宿場街の人びとは寺の跡地に墓地を構え、墓石を建てて墓参をするためにこの一帯を整備して管理してきたようです――17世紀には宿役などの名望家を除くと、庶民は墓石(石の墓標)を建てる慣習も経済力もありませんでした。ここは丘陵の南向きの陽当たりの良い斜面で、南に中沢川と浅科の集落を見渡す風景の美しい「まほらば」です。

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