仁科三湖の地形断面
下の絵図は、木崎湖を例にとって、仁科三湖の地形の東西方向で切った断面を略図化したものです。
仁科三湖は、フォッサマグナ――糸魚川市巣丘構造線――の断層帯に沿った造山運動の結果、地溝低地に水が流れ込み溜まって形成されたものです。湖水の西側に激しい隆起によって標高が高く急峻な山地・山脈が形成され、東側でも隆起によって山地が形成されましたが傾斜は比較的に緩やかです。
それゆえまた、湖底の最深部も西側に寄っています。とはいえ、湖底の堆積土砂が湖底を均しているので、東西でそれほど大きな湖底の形の差をもたらしてはいません。
氷河期が終わって縄文時代のはじめにかけては、仁科三湖はひと続きの湖面をなしていたようです。少なくとも、青木湖の田中綱湖――現在水面標高差5メートル――は一体化していて、その南端から滝のように落差のある幅広の水路で木崎湖――中綱湖との標高差70メートル――に水が流れていたと見られます。木崎湖からは何本もの大きな流れが高瀬川――何筋にも分流し蛇行していた――に向かって流れ下っていたのです。
西海ノ口集落の背後に迫る小熊山系 |
東側集落の背後の権現山系 |
仁科三湖の西岸側に標高が高く峻険な山岳・山脈があるのは、飛騨山脈=北アルプスの造山活動によって隆起したからです。海底から累計で1万メートルも隆起したのです。東岸も隆起した山地ですが、西側と比べれば圧倒的になだらかです――もちろん、山国信州だから、アルプス山塊と比べるから「なだらか」に見えるのです。
で、塩の道、千国街道はこの仁科盆地の西端を往く道が本道です。とはいえ、河川や湖水など、地形の関係で、場所によっては旅人により安全な経路を供するために、地溝帯の右端に脇往還がつくられてきました。それにしても、フォッサマグナに沿って南北に往還する道には違いありません。
木崎湖の周域では、東岸に権現山系から雪や雨などの降水が多数の沢として流れ下ってきて、湖畔に何か所ものやや広い扇状地形をつくりました。そこで、古代から東岸には南北に通じる小径が開かれ、道沿いにいくつも農村集落が形成されてきました。そのために、脇往還がつくられました。
木崎湖畔では、西岸の仁科山地の尾根の背に最も古くからの塩の道の跡があるようです。尾根の東側山腹には、時代によって異なる経路の街道・連絡路が開削されてきたようです。そして、東岸にも峰々を結ぶ尾根上の往還と、時代によって中腹や湖岸に脇街道が開かれたようです。