▲葦が生い茂る湿原: まばらな樹林越しに居谷里山のなだらかな尾根が見える。この尾根の向こう側が木崎湖。


▲湿原の東傍ら、丘の麓を南に抜ける小径: 湿原と居谷里貯水池の管理用道路を兼ねた遊歩道らしい


▲稲尾集落から稲尾沢川沿いに谷間をのぼる県道393号

▲渓流、稲尾沢川の流れ: 水源は新行地区で権現山の東斜面

▲県道から分岐して居谷里山の東麓湿原に向かう林道

▲湿地帯はハンノキ、ミヤマウメモドキ、イソノキなどの樹林


▲湿原順路の入り口にある説明板の地図


▲背の高いヤナギが立っているのは水面から上にある地面のようだ

▲ハンノキが集まった叢林

▲順路の端は水浸し: 道を外さないように歩かなければならない

▲湿原と樹林の彼方の緩やかな尾根は居谷里山頂に続いている

▲居谷里山の尾根続きの丘には居谷里神社が祀られている

塩津減の東の縁を往く小径: 居谷里水源地を管理するための道でもある

◆居谷里山東麓の谷間◆


稲尾沢の強清水水源の原水を引いた井戸

  稲尾集落から稲尾沢川沿いに谷間をのぼって旧美麻村新行まで連絡する道は、県道393号です。今回は、この県道を稲尾沢川中流部までたどり、そこから分岐する林道を進んで、居谷里湿原に向かいます。
  権現山系の尾根筋と居谷里山とのあいだの谷間を抜けて新行集落に向かう道は、何世紀も前から木崎湖と美麻・小川村方面とを結ぶ道でした。新行の古老の話では、村を開いたのは小川村方面からやって来た開拓民たちで、新行集落が建設されたのちに木崎湖畔の谷間を稲尾方面にに降りていったらしいということです。
  室町後期から戦国時代ないし江戸時代初期には、稲尾沢川の峡谷を往来する小径は開削されていたようです。

  さて、県道から分かれて居谷里山の東麓に向かう林道は、カラマツ林を抜けて湿地に近づいていきます。古代から人びとが生活の場としてきたこの一帯に、戦後に人びとはカラマツを植林したようです。
  カラマツ林の南側は、以前は湿地帯・沼沢地だったようですが、今では乾燥が進み、ハンノキ、ミヤマウメモドキ、イソノキの樹林となっています。湿地を好むヤナギの仲間もあれば、乾いた高い土地にはコナラもあるようです。とはいえ、春先から梅雨季には湿地に戻り、ミズバショウやヨシなど葦などの水辺を好む草が根元をおおっています。


順路の起点にある標識

低湿地の縁の畔のような順路

  湿原の北東側の入り口には駐車場とともに、人家または出造り家屋らしい建物が2軒あります。そして、ブルーベリー農園もあります。以前にこの辺りを開拓したのですが、このところ高齢化や過疎化とともに放棄され、自然林に戻りつつあるようです。。
  順路入り口の説明板によると、湿原は2つの部分に分かれています。順路は、湿原から浮かんだ小さな尾根の背を渡渉して、居谷里尾山の東麓の尾根と谷間に回り込むように設けられているようです。
  獣道のような順路は、湿地の縁の小高い岸辺を回るように設けられています。ところどころ橋のような木道があります。順路を踏み外すと、少なくとも5センチメートルほどはズブズブと足が沈みかけます。降雨の後にここに来るなら、浅い水辺を歩けるような防水靴が必要だと思われます。
  今は真夏なので、湿原・沼は水辺を好む草に多いつくされています。どこまでが水面で、どこからが縁地面なのかまったくわかりません。湿原の輪郭を見るためには、草が枯れ切った冬場に来なければなりません。


尾根筋の小高い丘の上に立つ居谷里神社の鳥居

丘の頂部近くには祠がいくつか置かれている

  湿原の西には居谷里山のなだらかな尾根が幾筋か張り出してきています。その尾根に続く小高い丘の上に赤い鳥居が見えます。居谷里神社が祀られているのです。丘の尾根筋の頂部に近いところに祠がいくつか安置されていますが、社号などはまったくわかりません。
  荒神社か水神社か、それとも違う神社でしょうか。山全体が神として崇められていたようにも見えます。
  いずれにせよ神社の存在は、居谷里山の湿原・水辺には古い時代から人びとが往来するか居住するかしていたことを示しています。そして、水源としての恵みを神に感謝し、水の勢いが荒ぶることを怖れて神に願っていたようです。
  白馬村や大町市の山際の湿地帯には縄文時代、弥生時代に集落が形成されて、人びとの集住生活が営まれたので、この湿原もそのひとつかもしれません。
  湿原の東端には、居谷里山の東に盛り上がった尾根筋を南に向かって回り込むように遊歩道が通っています。この小径は、県道31号沿いにある居谷里水源地まで連絡しています。この道を散策しながら、周囲の山や尾根から来る水がわずかずつ土砂を運んでくるので、湿原は徐々に埋まり、乾燥してきているのではないかと感じました。

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