▲木崎湖に向かって流れる稲尾沢川
◆環境に恵まれた豊かな農村風景◆
稲尾の集落を流れる稲尾沢川の谷間を北東方向に遡上すると、旧美麻村の新行という集落にいたります。往古には、この辺りから人びとが木崎湖岸にやって来て村を開いたものと見られます。新行の古老によると、美麻は小川村方面から来た先祖が開拓したのではないかということです。
稲尾沢川は稲尾の北東――権現山系の尾根筋の東の谷間――にある旧美麻新行から流れ下ってきます。中流部では南(居谷里山の東麓)からやって来る沢が合流します。この沢の谷間にある低地は居谷里湿原と呼ばれる湿地帯を形成しています。縄文時代から平安時代には、この湿原の周りに集落が営まれていたのかもしれません。人びとが木崎湖畔の稲尾まで降りてきて農村開拓を進めたのは鎌倉末期から室町時代にかけてではないでしょうか。
往古、仁科三湖の水位がもっと高かった時代には、湖南岸方面との連絡は難しかったので、この谷筋を通って東側の美麻方面の人里から木崎湖の北東岸(東海ノ口)への開拓民の移住がおこなわれたものと推測されます。
稲尾沢川の渓谷をつうじての往来は今でも盛んで、国道148号から分かれて東に向かう県道333号が稲尾沢川沿いに谷間を抜けて、旧美麻村新行や大町街道(県道31号)に連絡しています。
▲集落の家並みの向こうにお堂が見える
▲下諏訪神社近くの古民家
現在、稲尾の扇状地の上の方――国道の東側――の丘陵斜面に集落の家並みが集まっていて、湖畔沿い(西側)の低地には水田が開かれています。というのは、斜面上方の丘陵地では水は伏流して、水田を営むために必要な灌漑用水が確保できないからだと見られます。
そこには住居が集まっていて、家並みのあいだにブルーベリーや野菜を栽培する畑作地が割り込んでいます。湖畔低地には大量の伏流水が湧き出て、稲作に必要な農業用水の水源をつくっているのです。
その意味では、稲尾は農業にとって非常に恵まれた地理的環境にあるといえます。
▲道脇に立つ土蔵は北安曇に特有の造り
◆名も知れぬ古いお堂◆
この集落には名も由来も知れない古い小さなお堂があります。小ぢんまりとして川葺き造りです。その周りには墓地となっています。
明治維新期に松本藩によってこの一帯ではほとんどの寺院が破壊され、仏像や文物が失われてしまったので、寺号や由緒が不明となった堂宇が多いのです。この小堂もそのひとつなのでしょう。
この村には下諏訪神社があるので、この小堂は、江戸時代までこの神社の別当寺だった寺院の遺構かもしれません。
お堂の周りの墓地には、石仏のようなものが数多く並んでいます。集落の古老によると、阿弥陀様や地蔵様を浮き彫りにした小さな石塔が昔の墓石・墓標だったのだそうです。法名・戒名もない、素朴な庶民の墓だったということです。
▲茅葺造りの小堂は名前はわからない
▲墓地に並ぶ石仏のような墓石・墓標
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