▲三橋堂のたたずまい 国道148号からお堂の境内に入りかけたところで撮影してみた

  三橋堂は国道148号沿い(東脇)、蕎麦店「みの屋」の北隣にあります。木崎の南端から1キロメートルほど離れたところで、東方の山腹から続く緩やかな斜面が大町盆地北端に降り切った場所です。
  お堂の裏手の樹林を農具川から引いた幅30センチメートルほどの農業用水路が流れ、境内から約40メートル東側を農具川の本流が南流しています。


▲国道148号の高架陸橋の下を南に流れていく農具川。右(西方)に進むと森集落。




▲農具川の上に国道148号バイパスの高架陸橋が架かっている

▲農具川: 1キロメートルほど北にある木崎湖から流れ出ている

その昔、木崎湖から何本もの水流が発していて、
蛇行し交わりながら、南流していたそうだ。
それらは氾濫を繰り返し、浸食作用を続けながら、
大町盆地を平坦に削り均していった。
今では農具川は1本の流れにまとめられていて、
三橋堂から70メートル北で蛇行して、扇状地の
東端の山麓に沿って流れている。
農具川は山麓から離れると直線的な流路になる。
昭和の中期~後期にかけて耕地整理とともに流路
改造がおこなわれたのだ。そのため、往時の農具川
流域の地形の面影はほとんどないようだ。


▲三橋堂の正面:寄棟茅葺造りの小ぢんまりした端正なお堂だ

▲お堂の斜め前、境内に西端に並ぶ石塔や地蔵などの石仏群

▲お堂の東側には歴代の庚申塔などの石塔が並んでいる

▲お堂が従者のように石仏・石塔群を引き連れているようだ



▲境内の奥から南を振り返った眺め

▲壇上、社殿脇から境内を見わたす

◆農具川沿いにあった仏堂◆


国道の高架陸橋の下から南を眺める

ここから300メートルほど南に三橋堂がある

  このサイトでの例によって、三橋堂みつはしどうが位置する地形の話題から始めましょう。下のグーグルマップの「その他のオプション」をクリックし、レイヤを「地形」にしてみてください。このあたりの地形がわかります。
  このお堂は、居谷里山系の稜線の中ほどから盆地の底に降り切った山麓に位置しています。木崎湖トンネルを出てきた国道148号が山腹を陸橋でバイパスして、農具川と何本かの市道の上空を通過して盆地に降り切ったところでもあります。
  三橋堂のすぐ北側には、国道と木崎湖畔のキャンプ場や民宿街に向かう道路との交差点があります。
  ここは仏堂としての正式な名称(寺号)がかつてはあったのでしょうが、今は三橋堂と呼ばれています。「三橋という場所にある小堂」というほどの意味です。往時、この辺りには農具川の分流が3筋南流していました。流れのそれぞれに橋が架けられていたので、この辺りを三橋と呼んでいたそうです。


赤い布を着させれているのは地蔵様か

石碑のような形の道祖神

  この辺りは木崎とか山崎とか呼ばれる地籍で、木崎湖の湖水と農具川の分流群が形成した扇状地の上部です。大町盆地は、一番南側の高瀬川の扇状地に鹿島川の扇状地、そして一番東側の農具川の扇状地が合わさった複合扇状地です。
  大町盆地が現在のように平坦になったのは、農具川と鹿島川、高瀬川の浸食力が総体としてものすごく巨大だったからです。有明にある高瀬川の犀川への注ぎ口までの谷間にあった小山や丘、尾根などの起伏をことごとく破壊して平坦化してしまったのです。


お堂の内部の様子

お堂の後ろ側の様子

木立がお堂を覆う濃い日影をつくっている

  三橋堂は、江戸時代末期に設けられた仁科三十三蕃観音霊場めぐりの巡路のうち、第十三番に位置づけられています。このお堂には、如意輪観世音菩薩像が収められてきたそうです。ということは、三橋堂は観音堂ということでしょうか。
  南北安曇野では明治維新のときに松本藩の思惑によって過激な廃仏毀釈がおこなわれ、大半の寺院が破壊され、文物も失われてしまいました。そのため、この地方には、小さなお堂が多数残されていますが、それらの来歴とか、小堂がどういう寺院に帰属していたのか不明です。三橋堂もその例にもれず、です。

  さて、ここで木崎湖東岸の脇街道を往く旅が終わりを迎えます。湖西岸を往く千国街道本道との合流点に近づきました。

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