◆仁科神社と阿部神社◆
▲仁科神社入り口から西方の眺め:水田地帯が広がる
平安時代の後期、現在の大町市周辺には伊勢神宮領仁科御厨と大和王権領仁科荘という2つの荘園があり、これらの荘園を支配していたのが仁科氏でした。仁科氏は、もともとは高瀬川段丘最上段の社地区館之内に居館を構えていました。そこはJR南大町駅から東に1キロメートルほどの東山山麓で、仁科神明宮から3キロメートルほど北に位置するところです。
仁科氏は、鎌倉末期から室町時代のはじめ頃には、現在の大町市北原へ城館を移しました。居館跡は今では天正寺の境内になっています。二重の塀に囲まれた屋敷の跡は今も残っています。仁科氏が城下街として直接支配した都市集落は、現在の北原地区から若一王子神社のあたりまで続いていたそうです。
当時、北半球では機構の寒冷化で降水量が低下して高瀬川や鹿島川の流水量が減少したため、大町盆地の乾燥化が進んでいたようです。その辺りはほかの市街地よりも数メートルほど標高が高い丘陵で、高瀬川が増水・氾濫しても島のように水面に浮かんでいて、一帯での水田や集落の開拓の起点になったと見られます。
一方で、城館と城下街から5キロメートルほど北にある木崎湖南西畔の小高い丘陵に城砦を築き上げました。
▲拝殿の内部の様子
▲境内の東側から湖面を見おろす
往時、この丘陵は、木崎湖の水位が上昇すると、北・東・西の三方を湖面や沼地で囲まれ、北に突き出た半島状の地形となりました。半島の南端に外堀となる水路を開削して、戦乱にさいしては四方を水面に囲まれた堅固な防備の「水城」になったそうです。これが森城です。
城の大部分は現在では集落になっていますが、本丸跡には仁科氏や明治以降の戦没者を祭る仁科神社が造営されています。境内には、承久の変で鎌倉幕府軍と戦った仁科盛遠の顕彰碑や古い塚などが残っています。
仁科神社の北西側には阿部神社があります。この神社は仁科氏の祖先、阿部氏を祀る神社で、境内には往時から祖廟が設けられていたようです。
当時に木崎湖からは、南に向かって何本もの河川が流れ出ていました。仁科氏は、おそらく水路群を湖岸で1~2本の水路にまとめて、農業用取水施設をかねた外堀堰を設け、城内には「筋違い堀」「桜堀」などと呼ばれる2本の堀を東西方向に開削し、大手には土塁を築いて、城門が設けられていたそうです。
堰を過ぎると、ふたたび水路は地形に応じて何本にも分流したものと見られます。
こうして、城砦の本丸は、南側を少なくとも三重の堀(水濠)によって防御されていたのです。 木崎湖から流れ出た水路の「せんば」という地点に外堀堰を設けていたのですが、戦乱などの非常時には堰を閉じて湖面の水位を上げ、丘陵の北と東西を湖水や沼地で取り囲まれるようにして、湖面に浮かぶ島のようにして堅い防備としたといわれています。
「せんば」とは漢字を当てるとおそらく船場で、そこには、木崎湖の沿岸各地や農具川下流部を連絡する舟運の拠点として船着き場があったと想像できます。舟運は兵員や武器の運搬に用いられたはずですが、平時はむしろ、木崎湖畔、さらには中綱湖畔、青木湖畔の山麓に開拓のために人や物資を運搬していたのではないかと見られます。
そして森城の西側を「塩の道」千国街道が通っていたので、森城を拠点としてこの街道を統制して大きな収益を得ていたものと見られます。
仁科三湖やさらに佐野坂峠を越えて農耕地や集落を開拓して、千国街道の交通輸送の中継拠点として整備し交通の安全をはかったものと見られます。
こうして、森城は鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間、仁科郷と北原集落群の北の守りを果す「後詰めの城」として仁科氏がこの地を支配し、さらに北方に向けて農耕地や集落を開拓するための重要な拠点としての役割を果してきました。
城跡には仁科盛遠の「もとどり塚」、童話作家巌谷一波や加藤犀水・柿本環翠の句碑があり、湖水から引き揚げられた丸木舟等が保存されています。
この舟は、木崎湖中から発見されたもので、一本の栗材の丸太を丸ごとくりぬいて造られていることから「えぐり舟」と言われ、地元では通称「とっこ」と呼ばれていました。原始時代から水上の運搬用具として用いられた古代船のなごりを残しており、木材を組み合わせた構造船に比べて丈夫で、うねりや波の衝撃に強く、木材の重みもあってバランスがよいため、記録によれば明治時代まで使用されていたそうです。
▲道脇に立つ土蔵は北安曇に特有の造り
仁科神社の境内は森城の本丸(主郭)後に建立されたもので、平場には往時には大きな御殿(城の本陣と成長を兼ねた建物)があったそうです。
私は、仁科神社の社殿群を一回りした後、境内の東に突きって、高台から数メートル降りて湖岸の遊歩道に出ました。往時、外堰を閉じて湖の水位を上げると、湖面は高台の縁まで達したと思われます。
この湖の縁の遊歩道を北向きに回り込んで歩いて、阿部神社の境内に向かうことにしました。仁科神社と阿部神社の境内の周囲は、背の高い杉とサワラからなる鬱蒼とした樹林に取り囲まれています。根元の地面は、コゴミという草丈30センチメートルほどのシダ類に覆われています。そして、東側から阿部神社の境内を一回りし、参道を戻ることにしました。
▲本殿の蓋屋と拝殿はつながっている
▲墓一段高い本丸跡にある仁科神社本殿と拝殿
森城は、小高い丘陵の南端の外堀跡から阿部神社辺りの城砦北端までは、800メートル以上もあり、非常に広大な面積をもつ城でした。戦国時代1567年頃、武田信玄は城主仁科盛政を甲州に呼んで切腹させ――ここで仁科氏直系嫡流が断絶――、信玄の五男晴清を仁科五郎盛信と名乗らせて当城主として派遣し、上杉謙信に対抗するため城の大修築を施したのだとか。
戦国時代としては例外的に大規模の城砦で、遠く日本海糸魚川近くまでを支配する拠点となりました。
仁科氏は城館や城砦をしだいに北に向かって移動させ、拡張していったのですが、それは農耕地と集落を北に向かって開拓し、所領支配を拡張していったという流れを物語っているようです。
ところで、仁科氏は900年にもおよぶ長期間、この地を支配した豪族で、平安朝の古くから京都の朝廷とのつながりをもつことで小豪族ながらも中央文化を移入し、権威を裏打ちしました。塩の道=千国街道による日本海との物流への関銭課税の収入が財力の支えとして、大町・仁科郷に盤石の統治を敷き、古代からの文化の痕跡を大町市や周辺に数多く残しています。
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