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長野県大町市平
 
  木崎湖南西岸に位置する森集落。かつては観光客でにぎわう民宿街だったが、今では高齢化が進んで閑散としている。ところが最近、民宿街を復活させようとする若い世代が現れた。

  写真:中世の城の遺構の上にできた森集落(6月はじめ)。背後は居谷里山の尾根。

 
城跡に祀られた神社


小熊山の尾根は木崎湖の南西岸、森集落の西まで延びている。往時の
千国街道は、この山並みの中腹ないし尾根の背を通っていたという。

  木崎湖西岸には小熊山の尾根筋が南北に延びています。古い千国街道は、その尾根の中腹から背を通っていたといいます。というのも、往時この辺りは湖畔の低湿地が広がっていて、山麓の湖に近い平地に道はつくることができなかったからです。
  ところが、その東側の湖畔(木崎湖西南岸)には小高い丘陵が南北に続いています。この丘陵には、鎌倉時代から戦国時代まで、仁科郷の領主、仁科氏の森城があったそうです。森城は南北に細長い小高い丘の上に築かれていて、その東には木崎湖が迫り、西側には低湿地が広がっていたのです。
  森城の防御としては、木崎湖から流れ出る農具川沿いの「せんば」という場所に堰を築き、非常時には堰の水門を閉じて湖の水位を数メートル上げて低湿地を水で満たし、城砦がある丘の東西両側を幅数百メートルにもおよぶ広い水面で覆って、南から北に突き出した岬のようにしたようです。
  しかも、丘を東西に横切る水路を幾重にも開削して、全方位を水で取り囲んで城を守る濠としたのです。
  今、この丘陵の北端には阿部神社と仁科神社があり、かつては堀だった谷を挟んで南側には民宿・旅館街が形成されています。丘の西側にあったかつての低地は一部分を除いて広大な水田地帯となっています。


▲稲尾の湖畔水田地帯から見える森城址: 針葉樹林が城跡を取り囲んでいる。樹林の奥に本丸があったという。

■城跡にある2つの神社■

◆仁科神社と阿部神社◆


▲仁科神社入り口から西方の眺め:水田地帯が広がる

  平安時代の後期、現在の大町市周辺には伊勢神宮領仁科御厨と大和王権領仁科荘という2つの荘園があり、これらの荘園を支配していたのが仁科氏でした。仁科氏は、もともとは高瀬川段丘最上段の社地区館之内に居館を構えていました。そこはJR南大町駅から東に1キロメートルほどの東山山麓で、仁科神明宮から3キロメートルほど北に位置するところです。
  仁科氏は、鎌倉末期から室町時代のはじめ頃には、現在の大町市北原へ城館を移しました。居館跡は今では天正寺の境内になっています。二重の塀に囲まれた屋敷の跡は今も残っています。仁科氏が城下街として直接支配した都市集落は、現在の北原地区から若一王子神社のあたりまで続いていたそうです。
  当時、北半球では機構の寒冷化で降水量が低下して高瀬川や鹿島川の流水量が減少したため、大町盆地の乾燥化が進んでいたようです。その辺りはほかの市街地よりも数メートルほど標高が高い丘陵で、高瀬川が増水・氾濫しても島のように水面に浮かんでいて、一帯での水田や集落の開拓の起点になったと見られます。
  一方で、城館と城下街から5キロメートルほど北にある木崎湖南西畔の小高い丘陵に城砦を築き上げました。


▲拝殿の内部の様子

▲境内の東側から湖面を見おろす

  往時、この丘陵は、木崎湖の水位が上昇すると、北・東・西の三方を湖面や沼地で囲まれ、北に突き出た半島状の地形となりました。半島の南端に外堀となる水路を開削して、戦乱にさいしては四方を水面に囲まれた堅固な防備の「水城」になったそうです。これが森城です。
  城の大部分は現在では集落になっていますが、本丸跡には仁科氏や明治以降の戦没者を祭る仁科神社が造営されています。境内には、承久の変で鎌倉幕府軍と戦った仁科盛遠の顕彰碑や古い塚などが残っています。
  仁科神社の北西側には阿部神社があります。この神社は仁科氏の祖先、阿部氏を祀る神社で、境内には往時から祖廟が設けられていたようです。
  当時に木崎湖からは、南に向かって何本もの河川が流れ出ていました。仁科氏は、おそらく水路群を湖岸で1~2本の水路にまとめて、農業用取水施設をかねた外堀堰を設け、城内には「筋違いすじか堀」「桜堀」などと呼ばれる2本の堀を東西方向に開削し、大手には土塁を築いて、城門が設けられていたそうです。
  堰を過ぎると、ふたたび水路は地形に応じて何本にも分流したものと見られます。
  こうして、城砦の本丸は、南側を少なくとも三重の堀(水濠)によって防御されていたのです。 木崎湖から流れ出た水路の「せんば」という地点に外堀堰を設けていたのですが、戦乱などの非常時には堰を閉じて湖面の水位を上げ、丘陵の北と東西を湖水や沼地で取り囲まれるようにして、湖面に浮かぶ島のようにして堅い防備としたといわれています。
  「せんば」とは漢字を当てるとおそらく船場で、そこには、木崎湖の沿岸各地や農具川下流部を連絡する舟運の拠点として船着き場があったと想像できます。舟運は兵員や武器の運搬に用いられたはずですが、平時はむしろ、木崎湖畔、さらには中綱湖畔、青木湖畔の山麓に開拓のために人や物資を運搬していたのではないかと見られます。
  そして森城の西側を「塩の道」千国街道が通っていたので、森城を拠点としてこの街道を統制して大きな収益を得ていたものと見られます。
  仁科三湖やさらに佐野坂峠を越えて農耕地や集落を開拓して、千国街道の交通輸送の中継拠点として整備し交通の安全をはかったものと見られます。
  こうして、森城は鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間、仁科郷と北原集落群の北の守りを果す「後詰めの城」として仁科氏がこの地を支配し、さらに北方に向けて農耕地や集落を開拓するための重要な拠点としての役割を果してきました。
  城跡には仁科盛遠の「もとどり塚」、童話作家巌谷一波や加藤犀水・柿本環翠の句碑があり、湖水から引き揚げられた丸木舟等が保存されています。
  この舟は、木崎湖中から発見されたもので、一本の栗材の丸太を丸ごとくりぬいて造られていることから「えぐり舟」と言われ、地元では通称「とっこ」と呼ばれていました。原始時代から水上の運搬用具として用いられた古代船のなごりを残しており、木材を組み合わせた構造船に比べて丈夫で、うねりや波の衝撃に強く、木材の重みもあってバランスがよいため、記録によれば明治時代まで使用されていたそうです。


▲道脇に立つ土蔵は北安曇に特有の造り

  仁科神社の境内は森城の本丸(主郭)後に建立されたもので、平場には往時には大きな御殿(城の本陣と成長を兼ねた建物)があったそうです。   私は、仁科神社の社殿群を一回りした後、境内の東に突きって、高台から数メートル降りて湖岸の遊歩道に出ました。往時、外堰を閉じて湖の水位を上げると、湖面は高台の縁まで達したと思われます。

  この湖の縁の遊歩道を北向きに回り込んで歩いて、阿部神社の境内に向かうことにしました。仁科神社と阿部神社の境内の周囲は、背の高い杉とサワラからなる鬱蒼とした樹林に取り囲まれています。根元の地面は、コゴミという草丈30センチメートルほどのシダ類に覆われています。そして、東側から阿部神社の境内を一回りし、参道を戻ることにしました。


▲本殿の蓋屋と拝殿はつながっている

▲墓一段高い本丸跡にある仁科神社本殿と拝殿

  森城は、小高い丘陵の南端の外堀跡から阿部神社辺りの城砦北端までは、800メートル以上もあり、非常に広大な面積をもつ城でした。戦国時代1567年頃、武田信玄は城主仁科盛政を甲州に呼んで切腹させ――ここで仁科氏直系嫡流が断絶――、信玄の五男晴清を仁科五郎盛信と名乗らせて当城主として派遣し、上杉謙信に対抗するため城の大修築を施したのだとか。   戦国時代としては例外的に大規模の城砦で、遠く日本海糸魚川近くまでを支配する拠点となりました。

  仁科氏は城館や城砦をしだいに北に向かって移動させ、拡張していったのですが、それは農耕地と集落を北に向かって開拓し、所領支配を拡張していったという流れを物語っているようです。
  ところで、仁科氏は900年にもおよぶ長期間、この地を支配した豪族で、平安朝の古くから京都の朝廷とのつながりをもつことで小豪族ながらも中央文化を移入し、権威を裏打ちしました。塩の道=千国街道による日本海との物流への関銭課税の収入が財力の支えとして、大町・仁科郷に盤石の統治を敷き、古代からの文化の痕跡を大町市や周辺に数多く残しています。


仁科神社の南側の谷間を抜ける道路: 谷間はその昔は空堀だった

森城本丸跡(仁科神社と阿部神社)への参道

仁科神社の大鳥居(国家神道風の造り)

阿部神社の拝殿: 木造平屋建て、切妻、鉄板亀甲葺き、平入、桁行7間

拝殿裏の造り: 右端(最奥)が本殿で本殿は一間社神明造

拝殿東脇の社務所: 社殿群の背後には杉とサワラの杜が迫っている

加藤犀水の句碑: 背後の樹間から湖水と対岸が見える

境内の様子: この平場は城砦構築のさいに造成され、御殿があった

湖岸線を往く遊歩道に降りて信濃公堂方面を眺める

湖南岸の旅館街やレジャー施設などの風景

境内橋の斜面を降りると岸辺の遊歩道がある

この湖畔の小径を歩いて阿部神社までめざすことにした

湖岸の小径から針葉樹林を抜け、阿部神社の境内に向かう

境内東側から拝殿裏に回り、本殿を拝む

正面から見た拝殿: 茅葺造りの基本構造を残して修築したようだ

拝殿の西脇にある神楽殿(舞殿): 青壁は倉庫

神楽殿前からの拝殿の眺め

本殿の背後の針葉樹林から社殿群と境内を眺める

境内の南端から針葉樹並木下の参道と手水舎を眺める

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