▲丘の上にある八幡神社の大鳥居: 狭い石段をのぼる狭い参道の先にある

  湖畔の道を信濃公堂から500メートルほど南に歩いたところの山裾段丘の上に八幡神社があります。丘は、居谷里山の西の端の山裾にあります。社殿は木崎湖を見おろす位置にありますが、夏は樹木の枝葉に視界を遮られています。
  拝殿はまだ新しい感じの瓦葺きで、改築してからまだ30年は経過していないように見えます。本殿は小さな社で、何回りも大きな覆い屋(蓋殿)のなかに収められています。


▲境内東側から見た社殿がある壇上: 左側(南側)が拝殿で、その奥に覆い屋のなかに本殿を安置。




▲石段参道は、大鳥居、社殿の正面(ほぼ南方)に位置している

▲段丘崖の縁を往く参道小径: ここから西に湖面を見おろすことができる

▲参道小径から木崎湖と背後の山並みが展望できる

▲拝殿と本殿は壇上に置かれている

▲拝殿の奥、覆い屋(蓋殿)のなかに安置された本殿

▲コンクリートで覆われた石垣を土台とする本殿

▲境内の奥から南を振り返った眺め

▲壇上、社殿脇から境内を見わたす

◆湖を見おろす丘の上の神社◆


湖畔道路の東に迫る尾根段丘の上に神社がある

神社脇から西の眺め: 木崎湖の南端

  八幡神社が位置する高台は、木崎湖の南端を見おろす山裾の丘です。その下を通る湖南東岸の道路の西側には、旅館が並んでいます。
  旅館街を含む集落は、明治以降になってから形成されたものと見られます。それ以前は、居谷里山西山腹の八幡神社がある尾根台地に集落があったのではないでしょうか。
  時代が下るにつれて、山の上の方から湖畔に居住地集落が移動してきたようです。

  現在の境内の地形を見ると、かつてはもう少しこんもりと盛り上がった尾根が社殿の北側から南に伸びていたものと見られます。昭和中期以降に、その尾根の背を平坦地に造成して、現在の神社の境内としたようです。
  社殿が置かれてる壇もそのとき尾根の背を削り出して形づくったように見受けられます。


拝殿に背後に続く覆い屋のなかに本殿がある

まだ新しく見える拝殿: 向拝の下はガラス戸

  八幡神社は、もともと尾根の背にあったのではないかと思います。
  この八幡神社の由緒や来歴に関する史料を私はいまのところ見つけていません。木崎湖東岸では、東海ノ口の崩沢の谷間の入り口に八幡神社があります。その神社は、権現山の東山麓の集落から来た人びとが開拓したものと推測できます。
  東海ノ口に加えて稲尾の集落も権現山東麓からの開拓民が建設したものと見られます。とすると、この木崎湖南東岸の山崎もまた東方からの人びとが開いたのでしょうか。その可能性もありますが、この地は室町時代初期には形成されていた森集落――仁科氏の森城の城下街――の対岸に位置しているので、湖西側から来た人びとが開いた集落かもしれません。
  神社境内の東側は山腹から続く幅広の谷間の裾に広がる緩やかな斜面で、以前は畑作地や集落があったと見られる地形です。


境内の東側の草地: 傾斜の緩い丘陵斜面

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